こんにちは、八俣遠呂智です。
紀元前3世紀頃に水田稲作が日本列島全域に伝播行きましたが、すぐに大規模に栽培が始まった訳ではありません。現代のようにどこでも水田風景が見られるようになったのは、ずっとずっと後の室町時代や江戸時代になってからです。
弥生時代にはまだまだ小さな田圃が点在しているだけでした。そんな中でも大規模農業が可能な場所も存在し、それが邪馬台国という超大国へと成長して行ったのです。
まず、水田稲作が始まったばかりの日本列島の土地の様子を俯瞰してみましょう。
住んでいた人間は縄文人であり、狩猟採取・焼畑農業などで生業を立てていました。水田稲作に比べて非常に人口扶養力の弱い食料でしたので、人口はとても少なく、日本列島全域でもせいぜい5万人~10万人程度しか住んでいませんでした。
その為に、土地の様子はほとんど原始時代と同じ状態でした。例えば、海岸線では湿地帯が広がり、平野であっても山々と同じような雑木林や密林地帯となっていた事でしょう。もちろん局所的には、焼畑農業を行う事で僅かばかりの拓けた土地もあったかも知れませんね? いずれにしても大きな田圃を作は作れず、水田稲作を行うなどもってのほか、という状態だったのは間違いありません。
それでも徐々にではありますが田圃が作られ、やがて水田稲作は日本列島の食料生産の主役になって行きました。
では初期の頃は、どういった場所で水田稲作が行われたのでしょうか?
参考になるのは、やはり紀元前9世紀の菜畑遺跡や、紀元前5世紀の板付遺跡です。これらの場所では、まだまだ大規模な稲作は行われていませんでした。しかし、自然の状態でも水田稲作が行える僅かばかりの場所で、細々と行われていました。
では、水田稲作に適した土地とはどのような場所なのでしょうか?
これは、中学校の社会科で学習するレベルの、地形の成り立ちです。決して幼稚な内容ではなく、日本に於ける土地の成り立ちの基本の全てが、ここに詰まっています。
主な地形では、扇状地、三角州などがあります。
この中で、天然の水田稲作に適した土地は、河川の蛇行による三日月湖跡地、干潟となった潟湖跡地、山間部や盆地の淡水湖の水が引いた谷底低地、河川の下流部に見られる三角州や湿地帯が干上がった一部の土地です。
これらの土地は、粒子の細かい泥状の土が堆積した場所なので、栄養が豊富な上に水はけが悪いので、天然の水田稲作地帯となりました。また、土地の傾斜も緩やかで平坦ですので、細々と畔を作る必要もありません。
一方、扇状地は水はけが良すぎて水田には不向きですし、三角州や湿地帯は淡水や海水によって冠水してしまいますので、穀物栽培には適しません。
また、河川の堆積によって既に形成されていた平地部分は、現代でこそ広大な農耕地になっていますが、弥生時代には沿岸部にしか水田適地がありませんでした。残りの大部分は密林地帯となっていました。これは現代の河川敷の雑木林を見れば分かる通り、人の手が加えられない平地は山々と同じようにすぐに雑木林のように変貌してしまいます。
菜畑遺跡や板付遺跡のような原始的な稲作農業は、三日月湖跡地や谷底低地という局地的な水田適地でだけ、稲の栽培が行われていたのです。決して広域的に稲作農業が行われていた訳ではありません。
北部九州の平野の多くは扇状地などの洪積地が多く、そもそも水田稲作には不向きな土地です。この為に農業生産力が弱く、稲作が始まった時期が日本列島で最も早かったにも関わらず、邪馬台国のような超大国が出現するには至らなかったのです。
では、弥生時代に大きな規模で水田稲作が行われていたのは、どんな土地でしょうか?
それは、干潟となった潟湖跡地です。これまでの動画で何度も指摘しております「淡水湖跡」という事です。淡水湖に限らず、海水の混ざった汽水湖でも同じで、湖のあった場所は必ずと言っていいほど水田に適した場所になっています。
湖の底には、長い年月を掛けて山々からの堆積物が積み上がります。沖積層です。そして、湖の水が引きさえすれば、栄養が豊富な上に、べったりと平坦で極端に水はけが悪い天然の水田適地になるのです。しかも湖の底だった場所ですので木々が生い茂っておらず、伐採や根掘り作業などの開墾作業の必要もありません。
一般的な水田適地の考え方では、湖という表現よりも、「潟」、あるいは「沼」と言った方が、しっくり来るかも知れませんね?
潟や沼地を干拓して大規模な水田地帯となった場所は、日本全国各地に数えきれないほどあります。例えば、昭和30年代の秋田県の八郎潟干拓事業があります。 琵琶湖に次いで日本で2番目に広い湖だった八郎潟を水田地帯へと変貌させたのは、記憶に新しいところですね?
また昭和10年代には、京都盆地南部にあった巨椋池という巨大淡水湖を水田へと変貌させました。
さらに最も顕著な例として、江戸時代までは沼地だらけで全く使い物にならなかった新潟平野を、干拓によって日本一の米どころへと変貌させたのは典型的ですよね?
。このような事例は、日本全国・枚挙にいとまがありません。おそらく皆様のお住まいの地域でも、多かれ少なかれ沼地の水を抜いて田圃にした場所があるのではないでしょうか?
ちなみに私が住んでいる横浜市の中心部も同じです。意外かも知れませんが、16世紀ころまでは大きな沼地だった場所でした。17世紀に江戸・東京に幕府を開いたことで人口が急増し、食料自給が大問題になりました。そこで当時の横浜村を境に存在していた大きな沼地を水田にする事にしたそうです。
なお現在でも、もし横浜を田圃にすれば、大きな農業生産が期待できるのですが、大きなビルがいっぱい立ち並んでしまいました。もったいないですよね?
話を元に戻します。
水田稲作が日本列島全域に広がったばかりの頃は、まだまだ大規模に農業を行える土地はありませんでした。
開墾しようにも、その当時はまだ鉄器が伝来したばかりの時代でしたので、森林を伐採できる道具はありません。しかも牛や馬という強力な動力になる動物も、日本列島には存在していませんでした。
大規模に開拓開墾を行おうにも、人力だけの動力で石器のような脆弱な道具を使っていては、焼け石に水ですよね?
人工的な沼地の干拓は江戸時代から現代に掛けて大規模に行われたのであって、弥生時代には不可能だったのは、容易に想像が付きます。
水田稲作農業が始まったばかりの頃は、自然の状態でも水田稲作が可能だった場所にだけ、田圃が作られたと見るべきでしょう。
では具体的に、弥生時代に大規模に稲作が行えた天然の水田適地を挙げて行きます。
先程示しました「潟湖跡地」、という土地の成り立ちを基準にします。
まず思い浮かぶのは、北部九州の直方平野です。ここは、大規模水田稲作発祥の地ともいうべき場所です。菜畑遺跡や板付遺跡のような原始的で局地的な稲作栽培が、ついにこの地で完成しました。そして、遠賀川式土器というお米を炊飯するのに適した土器の発明をも引き起こしました。水田稲作が日本列島全域に広がったのは、この地での稲作文化の熟成があったからこそ、と言えます。
直方平野は盆地のような土地形状をしており、古代には淡水湖が広がっていた場所です。、まさに「潟湖跡地」であり、天然の水田適地です。残念ながらこの土地は水没しやすい形状をしていた為に、邪馬台国のような超大国が出現するには至りませんでした。
次に近畿地方です。河内平野や奈良盆地にも巨大な淡水湖が存在していた事は有名ですね?
近畿地方は、4世紀~6世紀に古墳時代というの黄金時代を迎えましたが、これは取りも直さず淡水湖の湖水が干上がって広大な水田適地が広がったからにほかなりません。水田バブルとも言うべき好景気に沸き立ち、無意味な巨大古墳の造成へと突っ走ったのでした。
但し弥生時代に既に水田が広がっていたかというと、そうではありません。河内平野で4世紀頃、奈良盆地で6世紀頃です。それぞれ、古墳時代と飛鳥時代という時代区分に位置づけされる時期が、この地域に広大な水田適地が広がった時期と一致します。
このほかにも、大小さまざまな水田適地が日本列島には存在しますが、そんな中で特に注目すべきは、日本海沿岸地域です。
先ほど述べました新潟平野に代表されるように、古代の日本海沿岸には同じような湖が数多く点在していました。それゆえに水田適地となったのです。
山陰地方から順に、出雲平野、倉吉平野、鳥取平野、豊岡盆地、福井平野、金沢平野、高田平野、刈羽平野(柏崎平野)、新潟平野、庄内平野、秋田平野、能代平野、津軽平野、などがあります。いずれもかつては淡水湖があった場所で、現代では豊饒な水田適地になっています。なぜ日本海沿岸地域に湖が多く存在し、水田適地へと変化したかというと、縄文海進と対馬海流の作用によるところが大きいのですが、詳細はまた別の機会に述べる事にします。
これらの内、新潟平野のように江戸時代になってから干拓工事によって水田地帯となった場所もあれば、弥生時代には既に湖水が引いて広大な水田適地が広がっていた場所もあります。地域によって平野になった時代はバラバラですが、それぞれの時期によって歴史上・重要な場所になっています。例えば、古墳時代に湖水が引いた出雲平野は、出雲神話に見られるような強力な勢力が出現しましたし、戦国時代に湖水が引いた高田平野は、戦国武将・上杉謙信の出現を見ました。さらに、江戸時代に干拓工事が行われた金沢平野は加賀百万石、新潟平野は現代にも通じる巨大な穀倉地帯となっていますよね?
そして最も早い時代、すなわち弥生時代に湖水が引いた場所は、邪馬台国の出現を見ました。その場所はこれまで何度も申して来ましたので、今回は言及を控えます。
弥生時代初期の紀元前3世紀には、北部九州の直方平野から本州最北端の弘前平野まで、あっという間に水田稲作文化が伝播しています。
これには二つの要因があったと考えます。
一つには、前回の動画で示しました通り、縄文人の血を受け継いだ古代海人族のの活躍がありました。環日本海をダイナミックに移動していた人々が、九州から青森まで移動するのは簡単だったからです。
そしてもう一つの要因は、今回示しました通り、日本海沿岸地域には潟湖跡地という天然の水田適地が数多く存在していた事によるものです。潟や沼と呼ばれる大小さまざまな湖が形成され、その湖水が引くこと水田稲作に適した場所となっていたのです。伝播してきた稲の種籾を、すぐにでも植え付けて大規模に生産する事が可能な場所だったという事です。もちろん新潟平野のように、弥生時代にはまだまだ全く湖水が引かずに、水田には出来なかった場所もありました。
そんな中で、丁度水田稲作が伝播した時期に、淡水湖の水が引いて広大な天然の水田適地となっていた場所もありました。そこは特に強力な農業生産を上げる事ができました。その場所こそが、魏志倭人伝に記されている「七万餘戸」もの超大国・邪馬台国だった考えます。
なお、北部九州にも広大な天然の水田適地は存在していました。日本列島における水田稲作文化の起源ともなった直方平野は典型的ですね? ところが超大国は出現できませんでした。それは海流の作用と気象条件によるものです。直方平野の場合、遠賀川が海に流れ出る河口域には、対馬海流の速い流れがありました。対馬海峡の狭くなった部分を流れていますので、ほかの日本海沿岸各地の流速の何倍ものスピードです。そのために河口域に砂礫層が堆積しやすく、遠賀川の出口がしばしば塞がれていたのです。そして行き場を失った遠賀川の水は直方平野全域を覆ってしまい、頻繁に水没してしまいました。そういった災害が起こりやすいという欠点があった為に、せっかくの広大な水田適地でありながら、稲作文化の発祥の地でありながら、邪馬台国のような超大国が出現する事は無かったのです。
また、九州全域に言える事ですが、自然災害が多い事も農業には不向きだった事の一因です。現代のようにダムや河川が整備されて立派な治水事業がなされていても、台風や洪水などの被害が毎年のように起こっている地域です。古代の九州はいかに悲惨な場所だったかは容易に想像が付くでしょう。せっかく大切に作物を栽培しても、収穫前に水没してしまっては何にもなりません。当然ですが災害保険もありませんからね。農業収穫が無い、イコール「死」を意味する古代では、九州で多くの人々が生活するのはままならなかったでしょう。
また、大規模な水田適地自体も少なかった為に、大きな人口爆発が九州で起こる事はありませんでした。
実際に、江戸時代の石高帳を見ても北部九州の農業生産力はとても脆弱で、超大国が出現できるような力が無かった事が明確に分かります。長い日本の歴史の中で、一度たりとも九州が日本の中心地に成れなかったのは、このような農業事情によるものなのです。
地理的に朝鮮半島に近い事から、大陸からの文物の流入は多かったのは間違いありませんので、せいぜい香港やシンガポールのような中継貿易地としての役割だったと見るのが自然です。
いかがでしたか?
紀元前3世紀頃に水田稲作が日本列島全域に伝播して行きましたが、本家本元の北部九州での成長はありませんでした。一方で、日本海沿岸地域には水田に適した場所が多く、瞬く間に普及して行ったのでした。
新潟県をはじめとして日本海側は「米どころ」という印象を誰しも持っていると思いますが、その根源は土地の成り立ちにあり、水田稲作が伝播した弥生時代から脈々と受け継がれていたという訳です。