航海日誌から分かる 古代船の現実

 前回は、「大王のひつぎ実験航海事業」の、阿蘇ピンク石を熊本から大阪まで運んだ海上ルートと中心に紹介しました。

 しっかり下準備をしてあったので、プロジェクトは成功裡に終わった事になっています。ところが実際には苦難の連続で、かなりの部分を曳航されていたようです。主催者の宇土市では、航海日誌という形で正直に記録し、インターネット上で公開しています。そこには、単純に「成功」と言えるかどうかの疑問も湧いてきます。今回は、この航海日誌からポイントを拾い出します。

航海日誌00
23日分の航海日誌

  「大王のひつぎ実験航海事業」の航海日誌は、全行程の23日分が記されています。ここから分かるのは、ほとんど失敗に終わったのではないか、という事です。もちろん、完全な失敗に終わった「なみはや号」と比較すると、大きな前進があった事は間違いありません。

 航海実験の前提として、安全の為に海上保安庁から様々な制限がありました。

1.波の高さが1.5メートル以上ある時は、危険なため実験航海隊形は行わない

2.関門海峡や来島海峡などの危険な海域は、曳航する

などです。つまり、自然条件が厳しい場合には、海上保安庁のディーゼル船で引っ張ってもらっていたのです。

 これでは「なみはや号」と同じでは?と思われるでしょうが、この実験では少なくとも自然条件さえ良ければ、人力だけで進む事が出来ていたのです。

 完全な成功とは言えませんが、大きな一歩を踏み出せた実験でした。

航海日誌10
びしょ濡れ

 順を追って、遭遇した困難さを見て行きましょう。

まず、宇土マリーナを出港した船は、予定よりも二時間も早く口之津港(くちのつこう)に到着しました。幸先の良いスタートでした。これは、有明海の潮流にうまく乗れた事が要因でした。

 しかしその後、外海ならでは数々の困難に遭遇して行くことになります。関門海峡までの玄界灘では、

「波高1.5メートル以上の時は危険なため実験航海隊形は行わない」との取り決めにより、半分以上は、現代のディーゼル船で引っ張ってもらいました。

 また、雨や風の影響も強く受け、思うようには進めなかったようです。雨は、おにぎりなどの食料品をずぶ濡れにしてしまいます。漕ぎ手の体力を奪うだけでなく、気力も奪ってしまったのです。この時点で、早くも体調不良を訴える若者が続出してしまいました。

 さらに、無人の石棺をのせた二隻の丸太船の棒舵が2本とも海中で折れてしまいました。

航海日誌20
危険海域は曳航

 関門海峡では、海上保安庁との取り決め通り、ディーゼル船に引っ張ってもらって通過しました。これは、古代船の安全はもちろんの事、細いこの海峡を行き来する船舶への配慮が最も大事な事だからです。操縦不能になって、商業船にぶつかりでもしたら、責任は完全に古代船の方ですので。

 ちなみに、関門海峡の潮流速度は10ノットで、鳴門海峡、来島海峡に次いで日本で三番目に難しい海域です。商業船がいなかったとしても、簡単に渡り切れる海域ではありません。

航海日誌30
瀬戸内海は難しい!

 関門海峡を過ぎてからも困難は付きまといました。それは、瀬戸内海を少し甘く見ていたからです。外海である玄界灘さえ通り過ぎれば、内海で波の穏やかな瀬戸内海に入れば安心、という大きな誤解があったようです。これは、以前の動画でも示しました通り、瀬戸内海はニッポン最も難しく、世界でも指折りの困難な海域です。玄界灘以上に用心しなければならなかったのですが。

 まず、波こそ穏やかながら、潮流速度が速く、タイミングを逃すと全く進まなくなる事。そして風が意外に強く、風向きの変化も激しかった事。古代人は、それらの自然条件を野生の勘で乗り切っていたでしょう。

 さらに夏場の実験だった事もあり、カンカン照りの日にはキャビンの温度は36度を超え、そういう時に限って風も吹かない。当然、Tシャツを絞らなければならないほどに汗が流れ出し、漕ぎ手はみな「軽い脱水症状」を起こす始末でした。

 この時期になると、船団内にさざ波が立ってきました。漕ぎ手の学生さんの不満も高まってしまいました。「魔物」が船団の中に入り込んでしまったようです。

航海日誌40
帆船は大失敗

 瀬戸内海では、船に帆を張って進んでみる実験も行われました。多少の効果はあったようですが、わずか40分間ほどで断念しました。それは、強風が吹いた場合に完全に制御不能になるからです。一旦風を受けてしまった帆は、下ろすことさえ出来なくなってしまいます。その危険性が見えてきた為に、早めに断念したのです。

 そもそも古墳時代には帆船はありませんでした。それは造船技術だけでなく、航海術という点で不可能だったからです。この事実を曲げて帆船の構造にしたのは、完全な失敗でした。

 しかし、「この時代の船には帆はなかった」という当たり前な事を、この実験で明確にできたのは、大きな成果でした。

航海日誌50
自然条件さえ良ければ・・・

 熊本県宇土市から大阪港まで古代船で移動できたという点では、成功でした。

ただし、人力だけで航海したわけではなく、実際は半分にも満たない距離でした。それは、海上保安庁との取り決めもあったので、やむを得ない部分もあります。

・関門海峡や明石海峡という、日本有数の困難な海域は、ディーゼル船に引っ張ってもらっていました。また、

・波の高い日、風の強い日も、ディーゼル船に引っ張ってもらいました。

古代船の構造については、

・自然条件さえ良ければ、人力での航海が可能だったことと、

・古代に帆船は存在しなかった事を証明できた事です。

 このプロジェクトは、25日程度という短く限られた期間でしたので、熊本から大阪まで移動できたのは、半分成功といえましょう。

もし六世紀の古代人であれば、25日では到底無理で、自然条件や船のメンテナンスをしながら、その四倍の100日以上は掛かったのではないかと想像しました。

 熊本県宇土市の「町おこし」イベントとしては、大成功でした。現在でもこの実証実験にちなんだイベントが毎年開催されているようです。

 また、現代の最新技術を駆使して作り上げた古代船をもってしても瀬戸内海航路は容易に進めなかった事や、帆船の技術が古代には無かった事、などの様々な事象が目に見える形で実証されました。

 謎だらけの古代史ですので、このような実際に行動を起こした事に尊敬の念を抱きます。

古代史は文献史学では何も見えてこないという事も、実証して下さいました。