皆既日食 卑弥呼の殺害

 卑弥呼の死と皆既日食との関係を説く論者を、時々見かけます。

 それは、248年に卑弥呼が死亡していますが、まさにその年に皆既日食が起こっているからです。

「皆既日食を予言できなかったから殺害された」

という論旨です。

 今回は、邪馬台国時代に起こった皆既日食を中心に考察します。

 248年の皆既日食は果たして卑弥呼の死との関係は? 

 前年の247年に起こった皆既日食はどこで?

意外な事実が見えてきます。

殺害10
247年の日食

 邪馬台国時代に起こった皆既日食の、観測された地域を示します。

なお、これから示すデータはアメリカ合衆国NASAが発表しているものです。地球自転の誤差を補正する⊿tの取り方で変わってきますが、かなり正確とされています。

 まず卑弥呼が無くなった前年の247年3月24日に起こった皆既日食です。このように、朝鮮半島南部から中国大陸へ向かって観測されています。日本列島で観測された地点はありません。北部九州では部分日食が起こった可能性はありますが、世界が真っ暗になるような状況は起こりませんでした。時間的にも、北部九州での太陽が沈んだ後ですので、見ることは不可能でした。

 このように、247年の皆既日食は、卑弥呼の死とは全く関係していません。

 なお、邪馬台国九州説論者は、地球時点誤差⊿tを都合のいいように改竄して、北部九州でも皆既日食が起こったかのように主張していますが、我田引水以外の何者でもありません。

殺害20
248年の日食

 次に、翌年の卑弥呼がなくなった年の皆既日食です。248年9月5日の早朝に起こっています。観測地域としては、帯域は狭いものの、北関東から北陸・能登半島に掛けて観測されています。

 日の出と共に働き始めていた弥生時代の人々にとって、日の出の明るい太陽の代わりに真っ黒な太陽が現れたのは、恐怖以外の何者でもなかったでしょう。

 イメージとしてはこのような感じです。

殺害201
夜明けの日食
殺害21
邪馬台国の候補地

 卑弥呼の死と皆既日食を関連付けてみましょう。有力な比定地は、近畿地方や九州地方ですが、皆既日食は全く起こっていません。つまり、邪馬台国は近畿地方でも九州地方でもない、という事です。

 では、邪馬台国はどこか? 北関東、信州、北陸、が有力となります。この中で、邪馬台国の可能性がある地域は、北陸地方だけです。つまり、邪馬台国越前説を唱える私の説だけが正しいという事です。ちょっと我田引水かな?

 しかしこのデータは、NASAが発表しているもので、私が捏造したものではない事をご理解下さい。

殺害30
273年の日食

 実はもう一つ邪馬台国時代の皆既日食があります。しかも最大規模です。これは、273年5月4日に起こっています。

 これもまた、関東、信州、北陸に掛けてです。帯域が広い上に、夕方の長い時間観測されています。

 年代としては卑弥呼はすでに亡くなっていますので、卑弥呼の宗女・壹與の時代という事です。

 ここで思い起こされるのは、古事記に記されている八俣遠呂智の神話です。古代出雲を支配していた高志の国・八俣遠呂智が、高天原のスサノオの勢力に敗れ去る神話です。

 卑弥呼、壹與と栄華を極めた邪馬台国勢力が、この皆既日食をきっかけに衰退が始まり、ついに九州・高天原の勢力に敗れ去ったのではないでしょうか。

殺害40
古代の日食

 では、これらの皆既日食を一つの地図にまとめてみます。

247年、248年、273年。

そして時代は下りますが、古墳時代最大の皆既日食・522年。

偶然にしても見事なまでに、観測地帯は邪馬台国・越前を通っています。そして、それぞれに大きな事件が起こっています。

248年には卑弥呼が死去。273年には邪馬台国が衰退。さらに522年には越前の大王・継体天皇が近畿を征服、および古代史最大の戦い・磐井の乱が北部九州で勃発しています。

 このように、皆既日食は古代日本における大事件を引き起こすきっかけになったのは間違いなさそうです。

 また、天照大神の天岩戸の元になった皆既日食も、邪馬台国の伝承が元になったと言えるでしょう。

 かつては邪馬台国・九州説を唱える論者たちが、盛んに皆既日食と卑弥呼の死との関係を熱弁していました。ところがデータが正確になるに連れて、すっかり鳴りを潜めてしまいました。

 邪馬台国論争の全てに言える事ですが、自説に都合の良いデータは使う、都合の悪いデータは無視する、という症状があります。それが顕著に現れた事例が皆既日食でしょう。

 今回の調査で分かった事は、邪馬台国・天照大神ともに、越前だったという事です。決して我田引水ではありません(笑)。