こんにちは、八俣遠呂智です。
水田稲作が日本列島全域に広がったのは紀元前3世紀でした。しかも、北部九州から遠賀川式土器と共に、瞬く間に伝播しました。その立役者は、元々日本列島に住んでいた縄文人です。後に、古代海人族と呼ばれるようになった玄界灘沿岸の海のプロフェッショナル集団です。
今回の内容は、水田稲作が伝来してから日本列島全域に伝播するまでの、縄文人と弥生人との関係を考察したファンタジーです。
水田稲作は紀元前9世紀に伝来しました。佐賀県の菜畑形跡です。ところがこれから600年もの間、九州島の中でだけホソボソと栽培されていたようで、本州・四国への広がりはありませんでした。
紀元前3世紀頃になってようやく、北部九州の直方平野において大規模水田稲作農業が始まり、遠賀川式土器というお米を食べるのに適した土器の開発もされました。そしてこの時期から突然、あっという間に本州最北端の青森県にまで水田稲作文化が広がっているのです。
これは、日本型の水田稲作文化が確立した事が一つの要因だったでしょうが、伝播スピードに関しては、それだけでは説明の付きませんよね? なぜそんなに迅速に伝播したのでしょうか?
まず、水田稲作の伝来以来、その栽培方法などで中国・長江流域からの人々の貢献があった事は否定できないでしょう。弥生人のDNAには、彼らの痕跡が確実に残っているからです。
では、日本列島全域に水田稲作を広めた人々も、同じ弥生人のご先祖様たちだったのでしょうか?
初歩的な歴史解説書では、「長江からの人々が水田稲作文化を日本列島に持ち込み、弥生人となった。そして弥生人が主体となって、日本列島全域に広めて行った。」となっています。また、弥生文化の研究者の中にも、これと同じような考えを持っている方が多いようです。
しかしながら、弥生人自らが稲作文化を広げて行ったというのには、無理があります。なぜならば、彼らは新参モノだからです。長江流域で漂流して、命からがら日本列島に流れ着いた僅かばかりの人々。そしてその子孫が弥生人です。初期の頃は、言うまでもなく少数派だったことでしょう。
その当時の状況を想像してみましょう。日本列島は、無人島だったわけではありません。人口は少ないながらも、縄文人がいました。
縄文人にとって長江流域から流れ着いた漂流民は、少ない食料を奪い取る邪魔者でしかなかった事でしょう。初期の頃は、問答無用で殺害されたに違いありません。これは縄文人と弥生人に限った話ではなく、人類普遍の、いや生物普遍の問題です。食料の奪い合いという生存競争は、すべての生物に言えることです。
縄文人は、狩猟・採取を生業にしていた人種でしたので人口はとても少なく、日本列島全域でも5万人~10万人程度でした。自然の恵みだけの食糧では、その程度の人口しか生存出来なかったのです。そこへ新たに食料を奪い取る人種が現れれば、当然のように拒絶反応が起こったのは、やむを得ない話です。
縄文人たちは、水田稲作が日本列島に根付くまでは、長江流域から流れ着いてくる人々との調和はありませんでした。
なお、「縄文時代は平和だった。」というファンタジーも縄文研究者たちからしばしば聞かれます。しかし、そんな事はありません。生物である以上、自らの生存を脅かす部外者に対しては排他的となり、残酷になります。
そんな環境の中を細々と生き延びたほんの一部の漂流民は、水田稲作という安定した食糧自給や人口扶養力をもって、ある程度の勢力規模になって行ったのです。また、縄文人にとっても狩猟や採取や焼畑農業といった不安定な食料調達よりも、水田稲作の食糧調達の方が遥かに優れている事に、やがて気が付いたのではないでしょうか?
それが紀元前3世紀頃の、直方平野で始まった大規模水田稲作であり、遠賀川式土器の開発だったという事です。この時代はまだ、縄文人と弥生人との共存が始まった時期だとも言えるのです。
一説には、弥生人が縄文人を駆逐した。あるいは、弥生人が縄文人を飲み込むように消滅させた。といった弥生人が主役の時代観がありますが、そうではなかったでしょう。あくまでも元々日本列島にいた縄文人が「主」、あとから現れた弥生人が「従」といった関係だったと推測します。
さて、そんな状況の中であれば、先述の「水田稲作が日本列島全域に一気に広がった」という謎も解明出来ます。それは、そもそも縄文人は海の民、航海のプロフェッショナルだったからです。紀元前4000年には既に、日本列島だけでなく沿海州や朝鮮半島をも活動範囲に含んでいた縄文人でしたので、新しい文化を一旦受け入れてしまえば、各地に伝播するのは容易だったはずです。環日本海を対馬海流やリマン海流の作用を活用して、ダイナミックに航海し、日本海沿岸各地に水田稲作文化を広げて行ったのです。
中国・長江流域からの漂流民は、農業を行っていた陸の民でしたので、彼らが一気に水田稲作文化を広げたとは考えられないでしょう。
このように、紀元前3世紀頃からは水田稲作文化が日本列島各地に伝播して、徐々に農耕社会へと変化して行きました。社会構造もそれに従って変化して行きました。それまでは、縄文人という狩猟民族ゆえの横並び社会でしたが、弥生時代という農耕社会は、現代に見られるような階層構造です。農地開拓や農作業は大人数で行う必要がありますので、集団を指揮する者と末端で働かされる者との区分が明確になります。これは一般には自然発生的に身分の上下が出来上がる場合もあります。しかし、人種によって出来上がる場合もあります。
例えば、近代の西欧諸国による植民地政策では、白人が支配者階級、その他の人種が労働者階級でしたよね? また、中世のモンゴル帝国もしかりです。少数の騎馬民族が支配者階級、そうでない者たちが労働者階級でしたよね?
弥生時代の階層構造はどうだったのでしょうか? 私は人種によって区別されていたように思えます。
少数の縄文人が支配者階級、多数の弥生人が労働者階級、といった具合です。
もちろん、縄文人が階層構造の上層部だったという事を証明するものはありません。しかし、何よりも縄文人は日本列島の先住民ですので新参者よりも強い立場だった事。それに海をダイナミックに航海するという命がけのとても危険な活動をしていた事、などから想像されます。農耕作業のような命の危険が少ない仕事とは、明確に区分されていたと考えます。現代でも、漁師さんのように大自然を相手にしている職業の人は、荒くれ男が多く、迫力がありますよね?
農耕民族の弥生人が、このような荒くれ縄文人を駆逐したなど、到底考えられません。
水田稲作文化が日本列島に広がったのは、組織の上層部にいた縄文人たちの理解があって初めて行われたのであり、実際に危険を冒して海を航海して広めて行ったもの縄文人自身でした。決して弥生人ではありません。何よりも弥生人は農耕民族でしたので、船を使って移動するのは苦手ですし、日本列島の地理にも疎かったはずです。
危険を伴う大仕事は、縄文人の手に委ねられており、それゆえに縄文人の方が上の立場だったと想像します。
水田稲作文化が日本列島に広がったのは、組織の上層部にいた縄文人たちの理解があって初めて行われたのであり、実際に危険を冒して海を航海して広めて行ったもの縄文人自身でした。決して弥生人ではありません。何よりも弥生人は農耕民族でしたので、船を使って移動するのは苦手ですし、日本列島の地理にも疎かったはずです。
危険を伴う大仕事は、縄文人の手に委ねられており、それゆえに縄文人の方が上の立場だったと想像します。
海を航海する者の厳しい仕事ぶりが、魏志倭人伝に記されている「掟」からも見て取れます。
其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹
「その行来、渡海し中国に詣るに、恒に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服は垢汚し、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。若し行く者に吉善ならば、共にその生口、財物を顧す。若し疾病が有り暴害に遭うならば、便(すなわ)ち、これを殺さんと欲す。その持衰が謹まずと謂う。」
とあります。
要約すると、海を渡って中国へ行く際には、ずっと体を汚いままにしておいて、肉を食べず、女性を近づけず、喪に服している者のような行いをし、仮に病気になったり航海に失敗しようものなら、殺されてしまう。
といった内容です。
これは、倭国の風俗習慣の中に、海を航海する者には決死の覚悟があった事を窺わせます。
海洋民族・縄文人の責任の重さが、明確に記されている記述と言えます。
このように、水田稲作を広めた縄文人は、とても重い責任を負って、組織の上部に位置していたのです。もちろん現代のように、末端の者に責任転嫁する卑しい者もいたでしょうが、古代に於いて命がけの仕事をする重要な責務は、常に支配者階級です。
この支配者階級だった縄文人たちは、水田稲作が確立された直方平野近くの玄界灘沿岸部を拠点としていました。彼らの末裔が、のちの古代海人族となりました。宗像三女神で有名な宗像氏や、金印で有名な志賀島を拠点としていた安曇氏、など日本書紀に登場する海人族は、ほとんどこのエリアです。
また、魏志倭人伝に記されている邪馬台国への航路でも、この地域が起点となっています。博多湾に存在していた奴国の次の国、海の国・不弥国は、宗像エリアです。ここから水行20日で投馬国への船旅となっていますよね? まさに縄文人を祖先に持つ古代海人族と、邪馬台国への航路とが一致する場所ともなっているのです。
一方で、縄文人の弥生人に対する扱いはどうだったのでしょうか?
水田稲作は、狭い土地で多くの人口を賄える強力な作物です。強力な人口扶養力がある農業です。支配階級だった縄文人は、これを活用して弥生人の数を増やし、更に農業生産を上げ、国力を増強しようとしました。つまり、弥生人という生き物を大いに繁殖させようとしたのではないでしょうか? 農業労働者の大量生産を行ったわけです。
その中で、時々縄文人の血も混ざりながら典型的な弥生人のDNAが形成されて行ったのだと考えます。
しかしこの政策は裏目に出ました。縄文人の失敗でした。
「軒を貸して母屋を取られる」という諺通りの展開になってしまいました。
労働者でしかなかった弥生人たちが大増殖してに、やがて日本列島を乗っ取られてしまったのです。
弥生人は、水田稲作の広がりと共に、縄文人を飲み込むように大増殖し、日本列島におけるマジョリティとなったのです。
縄文人固有のDNAは徐々に薄らいで行きました。そして絶滅危惧種となり、遂に消滅したのでした。
いかがでしたか?
縄文時代から弥生時代への変遷は、当然ながら一夜にして起こったものではありません。また、水田稲作が列島全域に広がった紀元前3世紀においてもまだ、縄文人のDNAは色濃く残っていました。弥生の博物館と呼ばれる鳥取県の青谷上寺地遺跡からは、大量の人骨が見つかり、DNA検査が行われていますが、その結果からも弥生人固有のDNAだけでなく、縄文人や大陸人のDNAも検出されています。
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