歴史学界の闇 古墳論のトンチンカン

 こんにちは、八俣遠呂智です。

 先日、ある有名な歴史家先生のYouTube動画を見ました。内容は、なぜ巨大古墳が作られたか?というテーマでした。残念ながら、私が小学生だった50年前に聞いた内容と、ほとんど同じでした。酷すぎます。歴史学界は硬直した組織のようですね? 今回は邪馬台国の話を離れて、歴史学会の闇について、この有名な歴史家先生のお話を基に考察します。

  組織や一般社会の中では、年齢や経験を盾に幅を利かせる年配者、いわゆる「老害」によく出くわします。人生経験が長いというだけでプライドが高く、間違いを認めずにすぐに感情的になったり、意地を張ったりすることが、老害の大きな特徴です。

 歴史学界は、典型的な老害組織のようですね?

考古学が、重鎮と呼ばれる人々によって近畿地方中心主義になっていたり、文献史学が全く理屈に合わない万世一系を頑なに主張したりしているのは有名です。

 これには、組織の中で世渡りする上でやむを得ない部分もあるのでしょう。下の方に属している若い人達にとって、彼らの意に沿わない説を唱えようものなら出世はままならい、という事情もある訳です。でも、歴史の真理を追究するという本来の目的からは、完全に逸脱していますよね?

 今回、ある有名な歴史家先生のYouTube動画を見て、改めて歴史学界の救いがたい闇を感じましたので、ご紹介します。

 その有名な歴史家先生の動画というのは、「なぜ巨大古墳が作られたのか?」、というテーマでした。

五世紀に造成された日本一の規模を誇る大仙古墳をはじめとする百舌鳥古墳群が、なぜ作られたのか?なぜその地だったのか?という内容でした。

 なお、今回の私の動画はかなり長くなりますので、幾つもの章に分けてあります。

 ・有名な歴史家先生が述べていた主張の要点

 ・それぞれの主張の問題点

という流れで進めて参ります。

 では、有名な歴史家先生がおっしゃっていた主張の要点を列挙します。

・まず、古代の近畿地方や大和王権についてです。大多数の人が疑問を持たない一般論です。

「大和王権は太古の昔から奈良盆地南部に存在していた。西暦3世紀の邪馬台国の時代には、箸墓古墳などの巨大古墳の造成が始まった。」

・次に、ヤマト王権と巨大古墳についてです。これも一般論ですね?

「五世紀に入ると大和王権の勢力は拡大し、巨大古墳は大阪湾に近い上町台地の上に造られるようになった。全長600メートルを超える大仙古墳をはじめとする百舌鳥古墳群がこれに当たる。」

・次に、巨大古墳が造られるようになった理由です。これには様々な説がありますが、50年前に流行った説を述べていらっしゃいます。

それは、「中国からやって来た使者たちに倭国・日本の力を誇示する為である。」という説です。

・「古墳時代には中国からの使者が頻繁に近畿地方を訪れるようになり、瀬戸内海を渡って大阪湾にやって来た。」(挿絵では大型帆船)

・「5世紀ころは、まだ上町台地が沿岸部だったので、大阪湾に入って来た中国船からは、巨大古墳の威容が目の前に飛び込んできた。倭国の力は侮れないと、中国人使者たちを驚かせた。」

 そして絶対に不可能な事を言って、自説を締めくくっています。

・「中国船はさらに奈良盆地を目指して、大山古墳のすぐそばを流れる大和川を遡って行った。」

・「そのまま大型の中国船で大和川の上流を目指して、奈良盆地に入っ行った。」

 有名な歴史家先生がおっしゃっていた内容は、このようなものでした。これだけだと、何だか尤もらしく聞こえてしまいますよね? 確かにこの中には一般論として認識されている事や、諸説あって断定できない事も含まれています。しかし、大和川の流れのように有り得ない、100%間違っている箇所もいくつか見られます。

 そもそも、この有名な歴史家先生がおっしゃっていた内容は、1970年代、今から50年前の私が小学生だった頃に、社会科の授業で教わった内容と、全く同じです。

 その当時の私は何の疑いもなく信じてしまいました。もちろん内容が正しければそれでも良いのですが、50年も経って様々な疑問が解明された現在において、まさかまだ同じ事を言う人がいたとは? しかもとても有名な歴史学界の重鎮が未だにこんな事を言っているとは? 若い研究者たち、この大先生に教えてやれよ! と言いたくなります。

 では、順を追ってこの歴史家先生のおかしな箇所を挙げて行きます。

まず、

・「大和王権は太古の昔から奈良盆地南部に存在していた。西暦3世紀の邪馬台国の時代には、箸墓古墳などの巨大古墳の造成が始まった。」

 日本最古の歴史書とされる古事記や日本書紀には、初代・神武天皇が橿原の地に都を置いて以来、奈良盆地南部にヤマト王権が樹立したとされています。この書物が正しい歴史書だとすればその通りなのですが、これは八世紀に成立したものです。編纂した時期は、七世紀の飛鳥時代で中心地は奈良盆地南部でした。当然のように飛鳥の地が弥生時代からの中心地だったとしてしまいますよね?

 しかし、古代の奈良盆地には巨大な淡水湖が存在しており、その湖水が引いて安定した農地になったのは六世紀頃です。この事実を鑑みれば、奈良盆地南部にヤマト王権が樹立したのは古墳時代後期から飛鳥時代だと推測されます。

 こういう自然科学的な要素を考察する事無く、古事記や日本書紀といった文献だけを盲目的に信じて大和王権を語るのは、安直すぎますよね?

 また、箸墓古墳の年代推定には恣意的な解釈があります。当初、4世紀~5世紀の古墳だとされていたにも拘わらず、筒型特殊器台が発見されただけで3世紀へと改変されています。本来、あってはならない時代推定の変更です。これは、文献史学上のファンタジーを考古学の時代推定に当てはめてしまったという大きな過ちです。日本書紀に記されているヤマトトトヒモモソヒメノという人物を卑弥呼であるとし、その埋葬場所が箸墓古墳だったので、強引に年代を100年も200年も早めてしまったという、悪質な曲解がなされているのです。

 このように、有名な歴史家先生は何ら深く考察する事なく、奈良盆地南部こそが全ての始まりだとして、自説を展開している訳です。

 なお、これについては「諸説あって未だに解明されていない箇所」ですので、歴史家先生のおっしゃる説も、可能性が無いわけではありません。

・「五世紀に入ると大和王権の勢力は拡大し、巨大古墳は大阪湾に近い上町台地の上に造られるようになった。全長600メートルを超える大仙古墳をはじめとする百舌鳥古墳群がこれに当たる。」

 古墳時代の象徴とも言える平地型の前方後円墳は、確かに奈良盆地南東部の大和古墳群あたりから始まったのは間違い無さそうです。そしてこの時期から日本列島全域に前方後円墳の造成が始まったのも事実です。しかしそれを以って大和王権の勢力が拡大したというのは早計でしょう。

 なぜならば、奈良盆地から広がったのは前方後円墳だけであって、周辺諸国からの先進文明が奈良盆地へ入って来るのは非常に遅く、文明から取り残された後進地域だったからです。

 仮に大和王権の支配が日本全国に拡大したのであれば、中国大陸からの文化も一早く奈良盆地に伝播して然るべきです。ところがそうではありませんでした。五経博士や百済仏教などの大陸の先進文明が奈良盆地に伝わったのは、六世紀になってからです。

 この状況から、前方後円墳の広がりは、奈良盆地の纏向遺跡という計画都市建設で培った土木工事技術が、計画の頓挫によって全国へ広がった。と見る方が自然です。四世紀や五世紀にヤマト王権の支配が広がった事にはなりません。

 また、大阪湾に近い上町台地の上に造られた巨大古墳は、奈良盆地から広がって来たものではありません。元々河内平野が近畿地方の中心地だったからです。これは、土器の変遷からその傾向が明確に分かります。弥生時代末期の近畿地方の標式土器である庄内式土器は、河内平野が起源です。それが奈良盆地に伝播して古墳時代初期の布留式土器へと繋がっているのです。

 この例からも、奈良盆地にあった大和王権の勢力が拡大して河内平野に巨大古墳の造成が始まったのではなく、河内平野の勢力が奈良盆地の開拓の為に纏向遺跡の建設を計画し、そこで培った土木技術が河内平野へ逆輸入されたとみるべきでしょう。

 なお、これについても「諸説あって未だに解明されていない箇所」ですので、歴史家先生のおっしゃる説も、可能性が無いわけではありません。

・「なぜ大仙古墳のような巨大なお墓を作るようになったのか? それは、中国からやって来た使者たちに倭国・日本の力を誇示する為である。」

 巨大古墳が作られた理由については、様々な説があります。

1.水田開発の残土を利用した

2.この先生のように、中国の使者に見せつける為

3.鉄という当時の貴重品を取引するための市場だった

4.天文台が作られていた

などです。

 このうち、一番目の水田開発の為というのが尤もらしい理由ですが、これは最も有り得ません。なぜならば百舌鳥古墳群は台地の上に造られているので、水田には適さない場所だからです。現代でこそ、この地域は土壌改良が成され灌漑が整備されて水田が広がっていますが、古代にそんなものは一切ありません。なによりも、もし本当に水田開発が目的だったならば、大規模に開拓開墾が行われた江戸時代にこそ、巨大古墳が造られて然るべきでしょう? 江戸時代に作られた巨大古墳はありますか? 全く無いでしょう?

 次に、有名な歴史家先生が説明されている、中国の使者に見せつける為、という説です。確かに権力を誇示する為に巨大古墳を造ったのだろう。とは思いますが、滅多にやって来ない中国からの使者に見せつける為だけに、そんなに大きなものを造る必要があったのでしょうか? 巨大古墳を一つ造るのに、どれだけの労力と時間が必要だったのか、素人目にも分かる事です。しかも、中国からの使者が近畿地方に確実にやって来たのは、7世紀の飛鳥時代からです。遣隋使に対する返礼の使者があったのが最初です。巨大古墳が造成されたのは5世紀ですので、200年も後の事ですよ。時代的な一致も見られないですね。

 なお、3世紀の邪馬台国時代には既に中国から使者がやって来た、と主張する畿内説支持者もいます。しかし、魏志倭人伝から分かる中国使者は、邪馬台国までは来ていません。伊都国・現在の福岡県糸島市にて逗留しており、そこで倭国の様子を記していますので、邪馬台国まで来ていないのは明白です。

 そのほかにも様々な説が唱えられていますが、残念ながら説得力のあるものはありません。もし特殊な目的で造られたのであれば一ヶ所で十分ですが、幾つもの巨大古墳が造られているからです。

 私も現在のところ、「権力を誇示する」という幼稚な理由だったのではないか? と考えています。ただし、中国使者に見せつける為ではないと思います。

 なお、これについても「諸説あって未だに解明されていない箇所」ですので、歴史家先生のおっしゃる説も、可能性が無いわけではありません。

 中国からの使者たちが近畿地方へやって来たのは、飛鳥時代の七世紀になってからの事です。古墳時代には一切ありません。仮にもし古墳時代にもやって来ていたとすれば、さらなる問題点があります。それは、

1.「中国人使者たちは、瀬戸内海を渡って大阪湾にやって来た。」

2.「大型船でやって来た。」

 これらはどちらも有り得ませんね?

瀬戸内海は潮流速度が速く、潮流変化の激しい世界屈指の困難な海域です。仮にもし中国人使者が近畿地方へやって来たとすれば、日本海航路を使ったはずです。日本海は冬場の荒波というイメージがありますが、春・夏・秋は、とても穏やかで航海のしやすい海です。しかも、対馬海流という西から東へ一方向へ流れる海流がありますので、古代のスーパーハイウェイとも言える航路なのです。中国人使者が瀬戸内海を渡ってやって来たなど、論外です。

 しかも古代にはこの挿絵のような立派な帆船は存在しません。帆船の設計や航海技術はとても難しく、中国でさえもこのレベルの帆船が実用化されたのは12世紀になってからです。時代錯誤もいいところですね?

 なお、7世紀から始まった遣唐使に使われた船は100人乗りだったという記述が記紀に記されており、遣唐使船はこの絵のような船だったと想像されています。しかしこれも有り得ませんね? 現代人が考えるほど古代の造船技術は、進んではいませんよ。

・「5世紀頃はまだ上町台地が沿岸部だったので、大阪湾に入って来た中国船からは、巨大古墳の威容が目に飛び込んできた。倭国の力は侮れないと、中国人使者たちを驚かせた。」

 5世紀頃の大阪湾は、現代よりもかなり内陸まで入り込んでおり、上町台地が沿岸部だったのは間違いありません。大阪湾に浮かぶ船から巨大古墳群の横顔が見られたのは間違いないでしょう。

 しかしこの大先生、巨大古墳を自分の目で見た事が無さそうですね。巨大古墳をご覧になった方はお分かりになるでしょう? 横から見れば、高さ30メートルほどの、ただのなだらかな丘にしか見えませんよね? もちろん前方後円墳という鍵穴の形をした丘だとは、全く分かりません。当たり前ですよね? その当時に航空写真がある訳もなく、上空から古墳全体を眺める事もできる訳がないのですから。

 仮に中国人使者が大阪湾にやって来たとしても、沿岸部に巨大が古墳が造られていたなどとは、夢にも思わなかった事でしょう。

 歴史学界の若い衆。この大先生に教えてあげなよ!

・「中国船は奈良盆地を目指して、大仙古墳のすぐそばを流れる大和川を遡る。」

 ここまで来るとこの大先生、恥さらしもいいところです。この方、歴史学界の大御所でありながら、大和川の明かな歴史さえも全くご存知ない。

 確かに現代の大和川は、上町台地を東西に横切るように百舌鳥古墳群のそばを流れています。しかしこれは江戸時代よりも後の話です。18世紀になってから付け替え工事が行われ、上町台地を掘削して現在の流れになりました。それ以前は、河内平野を南から北へ流れていました。もちろん5世紀の古墳時代も同じです。

中国からやって来た使者たちは、その当時には流れていなかった大和川をどうやって遡ったというのでしょうか?

 江戸時代という近世に付け替えられた大和川の付け替え工事さえも知らず、歴史学界の大御所として蘊蓄を垂れているこの大先生。恐らく下の者の意見に全く聞く耳を持たない人物なのでしょう。「老害」という言葉がピッタリです。

 奈良盆地を目指して、百舌鳥古墳群のすぐそばを流れる大和川を遡る。というのは、絶対に有り得ない事です。大先生の致命的な誤りです。

・「大型船で大和川を登って行き、奈良盆地に入る。」

これも不可能ですね。どうやって登って行くのでしょうか?

河内平野と奈良盆地とは標高差が30メートルほどあります。その区間を大和川は僅か2キロメートルほどの距離で流れ落ちています。かなりの急流です。しかも水量が少なく、川底は浅いのです。そんな場所を古代の大型船で遡るとは?

開いた口が塞がりません。

 特に、「亀の瀬」と呼ばれる渓谷は川幅がもっとも狭く、流れも速くなっていますので、現代でも船で簡単に遡れるような場所ではありません。

 曳舟あるいは修羅引きと呼ばれるロープで引っ張る方法もありますが、仮にその方法で船を引き上げようとしても、川底が浅く流れの速い場所に使われる方法ではありません。しかも古代の川岸は平坦に整備されていませんので、ほぼ不可能です。そんな事をするくらいならば、河内平野に船を置いておき、中国人の使者たちを輿にでも載せて奈良盆地まで運んであげる方がよっぽど楽です。

 とにかくこの歴史家大先生、現場を見た事のない、現実にそぐわない机上の空論ばかり述べていますね。

 これらのように、この歴史家先生のおっしゃる事は、一見もっともらしく聞こえるものの支離滅裂です。全く持って子供だましの幼稚な説を、歴史学界の重鎮とも言える大先生が「私は知っている」、とばかりに講釈を垂れているのです。

 歴史学界は、もちろんこの大先生のような方ばかりではありませんが、これに近い方々が多いのも事実です。

 物理学のような自然科学の分野でこんな先生がいれば、あっさりと信用を失ってしまいます。しかし歴史学では、現実的に可能か否かは問題ではないのです。「文献解釈」という情緒的で感情的な正解の無い分野だからです。

 文献に書かれいる内容から妄想を膨らませて、自説を構築すればいいだけの安直な学問、ファンタジーだけの学問、それが歴史学です。

 それにしても、江戸時代の大和川の付け替え工事くらいは知っていてほしかった!

 いかがでしたか?

 まあ、歴史の世界で蘊蓄を垂れている高名な先生方のレベルは、大抵このようなものです。

私の動画をご覧になった皆様からよく頂くご意見に、「○○先生の著書にはこう書いてあった。だからお前の言っている事は間違っている。」といった批判があります。

もちろん歴史学でも、立派な先生もおられる事でしょう。しかし多くの場合、取るに足らない存在です。歴史学の重鎮であろうと、今回のように素人でも分かるような大きな間違いを犯している場合が、多々あるのです。

 硬直した歴史学の世界では、大先生は老害でしかありません。