騎馬民族征服王朝説が説かれている「騎馬民族国家」の書評の後編です。
前回は、この本の「良い点」と、「残念な点」を示しました。今回は、この「残念な点」に、ほんの少しだけ視点を変える事で、騎馬民族征服説が現実味を帯びて来る事を示します。それは征服王朝が、崇神天皇と応神天皇という架空の人物によって作られたのではなく、実在した天皇によって作られたとすれば良いだけです。
騎馬民族国家・高句麗と、日本列島のある地域との繋がりを冷静に見れば、この説も自然に思えるでしょう。
前回の動画の中で、この本の残念な点として、
1.馬を運ぶ手段が無い事
2.騎馬民族のアタマを崇神天皇とした事
3.近畿地方を征服したアタマを応神天皇とした事
を上げました。
三世紀ごろの造船技術や航海術では、船に馬を載せて対馬海峡を渡る事は不可能です。また、世界屈指の困難な海域である瀬戸内海を、馬と一緒に移動したなどもってのほかです。
崇神天皇や応神天皇という考古学的な根拠が全くなく、実在性の低い天皇を主人公にしてしまった事で、ただのファンタジーで終わってしまいました。
今回は、これらの残念な点を、ほんの少しだけ視点を変えるだけで、騎馬民族征服説が真実に近いものだということを示して行きます。
まず造船技術や航海術です。三世紀~五世紀頃の大型の船は、人力での動力がほとんど役に立たないという代物でした。安定感が非常に悪く、帆柱を立てて風力を使うなど、もってのほかです。
以前の動画、「実証実験で分かる古代船の真の姿」で示しました通り、大型の古代船の動力は、「潮流」です。早い話が、漂流船のように海流の流れに任せて移動していたというお粗末なものでした。
では、騎馬民族・高句麗が、馬を伴って日本列島にやって来たとすれば、どの地域になるでしょうか?
単純な話です。沿海州を北から南へ流れるリマン海流に流され、さらに日本海沿岸を西から東へ流れる対馬海流に流されます。そして、漂着するエリアは、山陰地方から北陸地方となるのは自明でしょう。決して九州などではありません。
実際に、山陰地方と北陸地方には、高句麗由来の墳丘墓があります。四隅突出型墳丘墓と呼ばれる不思議な形をした弥生時代のお墓です。古墳時代の巨大古墳は、この四隅突出型墳丘墓がベースになっていると言われています。
この墳丘墓は、九州には存在しませんので、騎馬民族国家・高句麗との結びつきは、山陰地方や北陸地方との方が強い事が分かります。
また、出雲から能登半島に掛けては、弥生遺跡の銀座通りと呼ばれるほどの、北部九州を凌駕する遺跡が発見されています。日本で最も多くの青銅器が発見されている出雲半島の遺跡群、弥生拠点集落としては吉野ケ里遺跡を上回る日本第二位の規模を誇る妻木晩田遺跡、弥生の博物館と呼ばれるほどの多彩な出土品が発見されている青谷上寺地遺跡、邪馬台国時代の鉄器出土量第一位の奈具岡遺跡、邪馬台国時代の鉄器出土数第一位の林・藤島遺跡、青谷上寺地遺跡に負けず劣らず多彩な出土品が発見されている八日市地方遺跡、水田稲作の農耕具が多量に発見された拠点集落跡の吉崎次場(よしざきすば)遺跡、などなど弥生遺跡では近畿地方だけでなく九州地方をも圧倒しています。
特に、奈具岡遺跡や林藤島遺跡に代表される、鉄製工具が日本一豊富に存在していた事実は、高句麗との、極めて強い結びつきを感じます。それは高句麗が、騎馬民族国家であったと同時に、鉄器大国でもあったからです。
さらに、時代は下りますが、奈良時代から始まった渤海国との交流の窓口も、この地域です。渤海国は高句麗の後に成立した騎馬民族国家で、奈良時代にヤマト王権との交流がありました。窓口は、九州の大宰府ではなく、越前の敦賀でした。中国大陸東北部との海洋交通は、九州を窓口にするよりも、北陸地方の若狭湾を窓口にする方が理に適っていたという事です。リマン海流や対馬海流の作用を考慮すれば、至極当然の事でしょう。
古文書の上では、但馬の天日槍、越前の都怒我阿羅斯等という新羅系渡来人がこのエリアに存在していた事が、日本書紀に記されています。そして彼らの末裔が、神功皇后とされています。神功皇后もまた、都怒我阿羅斯等と同じように、越前・敦賀の地を拠点としていました。そして、北部九州の熊襲征伐や、高句麗・新羅・百済の三韓を征伐したとされています。もちろん神功皇后は神話の人物です。
それでも江上氏の説の騎馬民族の統領・崇神天皇よりも、ずっと後の時代ですし、近畿地方を征服したとする応神天皇の母親です。江上氏の論拠に従うならば、神功皇后は実在の人物となります。
また、仮に騎馬民族が日本列島にやって来たとすれば、何ら根拠もない崇神天皇なんかではなく、神功皇后がアタマだったとした方が遥かに筋が通ります。そして、支配した地域は、九州なんかではなく、北陸地方や山陰地方という事です。
このように、北陸地方や山陰地方が神功皇后をアタマとする騎馬民族によって支配されました。次の段階として、近畿征服です。
江上氏の説によれば、騎馬民族に支配された九州王国のアタマだった応神天皇が、瀬戸内海を渡って近畿地方を征服したとしています。
応神天皇の近畿地方の拠点を、北河内から摂津のエリアとし、奈良盆地の勢力と対峙したとしています。これもまた、何の根拠もありません。しかし、この勢力図、何かに似ていると思いませんか?
この地図は、大阪と奈良を拡大したものです。
江上氏が応神天皇の近畿征服の拠点とした場所が、北河内から摂津です。これはおそらく江上氏は、ある大王の活躍をモデルとして、近畿地方を征服したというファンタジーを書き上げたのでしょう。
モデルとなった大王が拠点とした場所が、まさに北河内や摂津なのです。
ある大王とは? もうお分かりでしょう。越前の大王・継体天皇です。
継体天皇が越前から近畿へやって来て、最初に都を開いたのがこの地です。樟葉野宮と呼ばれ、現在でも大阪府枚方市にその地名が残っています。この地が重要なのは、都が置かれた事だけではありません。渡来人の馬飼職人・河内馬飼首荒籠(カウチノウマカイノオビトアラコ)が、馬牧場を経営していた場所でもあるのです。継体天皇は、近畿征服に際して、この河内馬飼首荒籠(カウチノウマカイノオビトアラコ)をスパイとして状況を偵察させ、その上で近畿地方に乗り込んだとされています。これは、騎馬民族と継体天皇との強力な結びつきを意味しているのではないでしょうか。
具体的な話は、以前の動画、「日本最古のスパイ」にて述べていますので、ご参照下さい。
一方、北河内・摂津エリアの大阪府高槻市には、継体天皇の墓とされる今城塚古墳があります。ここは宮内庁の陵墓として指定されていないので、高槻市によって大いに発掘調査がなされています。そこからは、数多くの馬型埴輪や馬具類が発見されています。また、棺の埋葬方式が高句麗・新羅に見られる横穴式となっています。この形式は、天皇家の陵墓としては最も古いものです。
ここまでくると、越前の大王と、騎馬民族は切っても切れない関係だった事が断言できるでしょう。というよりも、継体天皇自身が騎馬民族の統領だったと見る方が自然ではないでしょうか。
江上波夫氏の騎馬民族征服説は、ユーラシア大陸の古代騎馬民族と、日本の古代史との接点を結びつけた、非常に面白いファンタジーです。この説にはいろいろな無理がありますが、少し視点を変えるだけで、ファンタジーではなく現実的なものに思えてきます。それは、
騎馬民族は、九州ではなく北陸地方へやって来た。
騎馬民族のアタマは、崇神天皇ではなく、神功皇后である。
近畿地方を征服した騎馬民族は、九州からやって来た応神天皇ではなく、越前からやって来た継体天皇である。
この3点を変えるだけで、騎馬民族説が信憑性の高い、説得力のあるものに変化します。
この本の中では、神功皇后は全く触れず、継体天皇は田舎の大王というショボい扱いにして、日本海側の勢力を完全に無視しています。
江上波夫氏は著名な考古学者でしたので、騎馬民族は九州ではなく北陸へやって来た事など、百も承知していたのかも知れません。あえて無視した可能性もあります。あるいは、考古学会の重鎮でしたので、下の者は忖度せざるを得ず、誰も反論できなかったのかも知れません。
日本古代史を研究している人の多くは、近畿地方と九州地方の二か所だけに興味を持っているようです。九州から文明が入り、近畿へ伝わったと。あたかも、それ以外の地域に人が住んでいなかったかのように。
実際、私が邪馬台国九州説を支持していた頃もそうでした。北陸地方の事など、全く視野に入っていませんでした。
今回、数十年ぶりに江上氏の本を呼んでみると、自分も含めて九州説を信じている人達の視野は非常に狭くて、何も見えていない事がよく分かりました。騎馬民族征服説は、九州ではなく北陸でこそ成り立ちます。