騎馬民族征服王朝説というファンタジーがありました。古代日本が、ユーラシア系の騎馬民族によって征服され、ヤマト王権を打ち立てたという説です。一時期はブームになりましたが、根拠があまりにも貧弱だった為に現在では語られる事はありません。ただし、古墳時代後期の馬型埴輪や馬具という出土品、飛鳥時代での政治体制の確立において、騎馬民族が少なからず日本に影響を与えていた事は、確実でしょう。
今回は、この説をまとめた本に着目し、良かった点と、残念な点を示します。視点を変えて読めば、理に適っているように思えました。
騎馬民族征服王朝説をまとめた「騎馬民族国家」という本は、考古学者の江上波夫氏によって1967年に発表されました。あまりにも有名な本なので、ご存じの方も多いと思います。
ユーラシア大陸を駆け巡る騎馬民族という壮大なロマンと、万世一系を軸とした皇国史観に縛られない自由な発想で、その当時は大ブームになったそうです。
私がこの本を初めて読んだのは、1990年頃です。当時は、邪馬台国九州説を支持していましたので、素敵なファンタジーとして、非常に興味深く読み耽っていた記憶があります。
ただし、大量の馬をどうやって運んで来たのかという基本的で現実的な問題解決の糸口が全く示されていなかったので、「ありえない」と結論付けしていました。
著者は、考古学者の江上波夫氏です。1906年生まれで、2002年にお亡くなりになっておられます。
東京大学の文学部東洋史学科をご卒業されており、東洋史学の研究での優れた功績が認められ、数々の賞を受賞されておられます。いわゆる、考古学会の重鎮です。
江上波夫氏が一般の歴史・考古学ファンの心をつかんだのは、この騎馬民族征服王朝説でした。古事記、日本書紀などの古文書に日本人が騎馬民族であるかのような記述は見当たりませんが、渡来人に関する記述が多くみられる事や、古墳時代後期の近畿地方の遺跡からの出土品に馬に関連する遺物が多い事、そして、古代日本の礎となった政治体制に騎馬民族特有の考え方がある事、などから、この説が導き出されたようです。
現在では、騎馬民族説は「昭和の虚構」となってしまいましたが、江上氏の学者としての真価はむしろ、日本の考古学に海外調査への道を開いたという点にあるとされています。
この本の内容は、大きく二つに分けられます。
1.騎馬民族とはなにか、と
2.日本における征服王朝、です。
「騎馬民族とはなにか」では、ユーラシア大陸における遊牧民族や騎馬民族の発生から、実在したとされる古代騎馬民族の国々について書かれています。この分野は江上氏が専門とされていた領域なので、非常に詳しく、分かりやすく書かれています。騎馬民族の風俗・習慣や政治体制など、こと細かに描かれています。
「日本における征服王朝」では、3世紀頃に騎馬民族・高句麗の勢力が朝鮮半島を南下して、さらには九州に王国が成立した。そして、5世紀頃には瀬戸内海を渡って近畿地方に上陸し、ヤマト王権を樹立した。という内容です。古墳時代の出土品の変遷、記紀に記されている渡来人たちとの関係、日本の国家体制の基本となる考え方が騎馬民族のそれと一致している事、など、前半部分で説明されている内容との関連付けも、しっかり描かれています。
この本の良い点を上げます。
まず、「騎馬民族とはなにか」という疑問に対する答えが明確です。ユーラシア大陸の古代騎馬民族についての記述は秀逸です。各種の出土品の写真を織り交ぜながら、非常に丁寧に、素人でも分かりやすく説明がなされています。この分野は日本古代史に比べて、はるかに少ない数の研究者しかいない上に、やたらと小難しく解説する輩が多いのが実態です。これだけ分かりやすく解説できるのは、江上氏がそれだけ深く理解していたという事でしょう。
次に、「日本における征服王朝」の内容では、騎馬民族が日本に与えた影響力を再認識させられました。騎馬民族によって日本が征服されたかどうかは別として、古墳時代後期に「馬」が日本に伝来して、普及した事は確かな事です。古墳から出土する数多くの馬型埴輪が典型的で、人間が馬に乗るための鞍などの馬具類もこの時期に一気に増えている事実からも分かります。
そして、古代日本の政治体制が、騎馬民族の考え方と一致している事も納得できます。天皇家の男系血族の世襲制度を筆頭とする王族の在り方や、中央集権国家体制の構築方法が、騎馬民族のそれと似通っていると言って差し支えないと思います。
また、仮に騎馬民族が近畿地方にやって来たとすれば、その拠点を摂津や北河内として、奈良盆地の勢力と対峙して、ついに大和王権を樹立した、という点も納得できます。古代における近畿地方の水田適地は、奈良盆地南部と、河内平野や淀川水系ですので、敵対したとすればこの地域が絶好の場所だからです。
この本の残念な点です。
まず、3世紀頃の航海術では、大量の馬を運ぶ事は出来ない、という事です。これまでの動画で何度も説明していますが、古代船の性能は、現代人の想像以上に稚拙なものでした。対馬海峡を渡るにしても、一人乗りか二人乗り程度の丸木舟、あるいは、準構造船程度のレベルです。神経質な馬を運ぶとなると、かなり大型の船舶でないと無理です。
また、航海術という点でも問題があります。騎馬民族は「陸のプロ」であって、「海のプロ」ではありません。航海術は下手くそです。実例として、奈良時代の渤海使があります。高句麗が滅んだ後に成立した渤海国が、日本へ送って来た使節団ですが、航海術の下手くそさを露呈しています。越前・敦賀を目指したはずが、秋田県の男鹿半島や、佐渡島など、とんでもない場所に漂着しているのです。高句麗や渤海国は、広大なユーラシア大陸では自由自在に動き回っていた騎馬民族でしょうが、海の上では全くの役立たずな民族だったのです。
3世紀に対馬海峡を馬と一緒に渡って来たなど、笑止千万です。
海の移動については、もう一点あります。九州を支配した後で、瀬戸内海航路を使って近畿地方を征服した、としています。これまた、無理な話です。
瀬戸内海は、潮流速度が非常に速く、潮流の向きの変化も激しいという、世界でも指折りの難しい、困難な海域なのです。そのような海を馬と一緒に船に乗って移動したなど、有り得ません。
仮に騎馬民族が海を渡って日本列島にやって来れたとしましょう。しかし、そのアタマが崇神天皇というのも納得できません。
崇神天皇は、日本書紀の上では第十代天皇で、ヤマト王権の中央集権体制を強力に推し進めたとされています。朝鮮半島との関わりも僅かながらありますが、九州との関わりは全くありません。なぜ崇神天皇なのか、納得できる説明は何もありませんでした。
さらに、近畿を征服したのは応神天皇としています。応神天皇も九州との関係はほとんどありません。僅かに、生まれた場所が福岡県の宇美の地だとされているだけです。何をもって、応神天皇が九州の大王で、騎馬軍団を従えて近畿地方を征服したのか? その説明も全くありません。ちなみに応神天皇が宇佐神宮の祭神とされたのは、ずっと後の平安時代の事です。
崇神天皇、応神天皇とも、考古学的な根拠が全くない、実在性に乏しい天皇です。ファンタジーと言ってしまえばそれまでですが。
もちろんファンタジーでも良いのですが、あまりにも自分勝手な解釈も目に付きました。それは、神功皇后です。
神功皇后は、応神天皇の母親で、騎馬民族・高句麗をはじめとする三韓を征伐した事で有名な女傑です。この人物こそ、騎馬民族征服説の筆頭に出すべきなのに、何の描写もありませんでした。江上氏は、たった一言「神功は神話の人物だ」。不思議です。神功皇后の息子・応神天皇を実在の人物としたのに、その母親は神話の人物。さらにそれよりも古い崇神天皇は実在した人物としているのです。
おそらく、神功皇后を表舞台に出してしまうと、九州王朝説が崩れ去ってしまうからでしょう。あまりにも、ご都合主義ですねぇ。
もう一点、残念なところを上げるとすれば、継体天皇に関する記述です。
崇神天皇や応神天皇については、日本書紀を飛び越えて、有り得ないほどのファンタジーを書き上げているのに、継体天皇については、一転して日本書紀に素直です。記紀に書かれている通りに、田舎の大王を招聘した、程度にしか書かれていません。ほとんど無視しています。
これもまた、神功皇后と同じように、継体天皇を表舞台に出してしまうと、九州王朝説が崩れ去ってしまうからだと思います。なにせ、継体天皇は王朝交代説の大本命ですので。
騎馬民族征服説は、ファンタジーとしては楽しめます。私が邪馬台国九州説を支持していた頃には、それで良かったのですが、現在では、自分の視野が狭かった事に気が付きました。それは、江上氏の説を、ほんの少しだけ視点を変える事で、騎馬民族征服説が現実味を帯びて来るという事です。その鍵は、江上氏が触れたくなかった「神功皇后」と「継体天皇」にあります。「リマン海流・対馬海流の作用から、中国大陸との窓口は九州だけではない」、という視点に立てば、答えは自ずと見えてくるでしょう。次回は、少し視点を変えれば、この説に現実味を帯びる事を示します。