邪馬台国越前説を唱えた書籍が過去に存在していました。1987年に出版された「卑弥呼の木像が出た!」という本です。1980年代は邪馬台国ブームで、日本全国で「我が県こそは・・・」と多くの本が出版された中の一つです。感想は一言「酷すぎる」でした。怒りを覚えます。私の説とは似て非なり。お国自慢しか書かれていません。地元の皆様も呆れかえったのではないでしょうか。
どうやら、私の説がトンデモ説呼ばわりされるのは、この本が元凶だったようです。
かつて邪馬台国ブームというのがありました。1970年代に古代史研究家の間で徐々に論争が起こり、1985年には、九州・吉野ケ里遺跡が発見されて、一般の人々の間でも邪馬台国ファンタジーが語られるようになりました。
そういう状況でしたので、邪馬台国本が雨後の竹の子のように出版された時代でもありました。
その中の一冊が、今回紹介する「卑弥呼の木像が出た!」という本で、邪馬台国越前説を唱えています。1987年に出版されて、すでに絶版になっています。
私は、YouTube動画やホームページで邪馬台国越前説を唱えていますが、つい最近まで、この本の存在を全く知りませんでした。早い話、それほどマイナーで、説得力の無い内容だという事です。
著者は神門酔生(こうどすいせい)、構成は三宅一志(みやけかずし)となっています。お二方とも略歴は書かれていません。ただし、神門酔生についての人物像は、最初に書かれています。
古来より連綿と続く越前の旧家の末裔。生涯独身で、学問を冒涜するのが趣味。三十五年間もお風呂に入っていないという、あきれ果てるほど怠惰でものぐさ。いわゆる「変人」という類の人物だそうです。
この神門酔生が語った事を、三宅一志が記録したという構成になっています。
三流小説によくあるパターンですねぇ。主人公を現実離れした存在に設定する事で、読者をファンタジーに引き込もうとする姑息な手段です。
おそらく地元の有志が、町おこしの為に三宅一志というゴーストライターに依頼して、越前に伝わる神社伝承や伝統工芸、伝統芸能などを、神門酔生の名を借りて紹介したかったのでしょう。
この本の中で、邪馬台国が越前の国にあったという根拠は、一点のみです。それは、対馬海流の作用です。
冒頭の能書きを引用します。
「東シナ海から日本海に流れ込む対馬暖流が、最初に日本列島にぶつかる場所。越前の国。その流れにのって、戦乱に破れたおびただしい数の中国人貴族たちが、越前にやってきた。」だそうです。
このほかに根拠らしい根拠は見当たりませんでした。
本の内容のほとんどは、越前が邪馬台国であった事を前提として、伝承や古文書を曲解しながら、ずらずらと自慢話を述べているに過ぎません。
・ミニ中国だった越前
・卑弥呼の魔術
・卑弥呼の木像
・継体天皇は卑弥呼の子孫
・出雲神話は越前のコピー
・大和文化も越前文化
などです。いずれも福井県の伝承と結びつけて、無理やりこじつけた内容でした。
とにかく、お国自慢だらけの、酷い我田引水です。
では、書評に入ります。欠点だらけでしたが、少しだけ良い部分もありましたので、長所から入ります。
長所:
・地元の皆様にとっては、越前に散らばる様々な伝承があるのを再認識する良い機会になった事でしょう。灯台下暗しで、地元の歴史であっても、このような機会が無ければ、なかなか知ることは出来ないものです。
・もう一つ、邪馬台国畿内説や九州説に対する批判の中に、良い文言がありました。それは、古代史研究の内部事情です。
神門酔生いわく。「若いころに学者の世界というのをウンザリするほど見聞しておりますが、とにかく、先生の説に少しでも反論しようものなら出世はおぼつきません。ですから、内心では「違うんじゃあ、ないか」と思っても、先生の説を受けてそれを展開していかないことには、とても教授にはなれんのであります。」
これは誰しも経験があるでしょう。まあ、組織に属している以上は、大学であれ、企業であれ、階層構造になってしまいますからね。「黒いものを、白」と言わざるを得ない状況は普遍的に存在します。
邪馬台国の研究でも、組織に属している人間が新しい説を唱えるのは、まず無理ですね。
次に、この本の欠点です。いっぱい有りすぎるので、核心部分だけにしておきます。
核心は、「邪馬台国が越前だという必然性が、全く無い事」です。
神門酔生の根拠は、「東シナ海から日本海に流れ込む対馬暖流が、最初に日本列島にぶつかる場所。越前の国。その流れにのって、戦乱に破れたおびただしい数の中国人貴族たちが、越前にやってきた。」
とありますが、対馬海流はまず北部九州にぶつかります。さらに出雲半島や丹後半島に引っ掛かります。そして最後に越前海岸にぶつかります。
彼の説からは、邪馬台国が越前である必然性はなにも見えてきません。仮に越前だとすれば、中国人貴族たちは何を目的にやって来たのでしょうか? 日本列島のほかの場所にはない特別な何かが越前にはあったのでしょうか? お宝が眠っていたのでしょうか? それは何でしょうか?
九州説であれば、朝鮮半島や中国大陸に近い事。畿内説であれば、古墳時代以降に日本の中心地となった事。など、邪馬台国があったという必然性が、多少なりとも存在します。ところが、この本の内容では、邪馬台国が越前にあったという必然性は、どこにも見当たりませんでした。
また丸木舟しか無かった時代です。海流に乗って来るのは良いにしても、逆方向はどうしたのでしょうか?
その答えは何も書いてありません。
おびただしい数の中国人貴族がやって来た。次から次へと。日野山という山を目標にやって来た。・・・
これでは、誰も納得しないでしょう。
対馬海流に乗ってやって来れたとしても、逆は無理です。対馬海流に逆った場合には、地乗り航法であれば五島列島までは行けるでしょう。ところが、その先は完全に無理です。中国大陸南部への一千キロを海流に逆らって、丸木舟で戻ったとでも言うのでしょうか?
また、どうやって、「越前までやって来い」と、中国大陸へ連絡したのでしょうか?
その当時、インターネットか電話があったとでも言うのでしょうか?
百歩譲って、おびただしい数の中国人貴族が越前に来たとしましょう。その場合、食料はどうしたのでしょうか?
弥生時代という弱肉強食の時代です。「移動」という生産性の無い活動でやって来たからには、元々現地に住んでいた人々との間に、食料をめぐる激しい戦いが繰り広げられたでしょう。
現地の人々を皆殺しにして、越前を征服したという事でしょうか? まあ、それは有り得ますけどね。
また、中国人たちによって征服された越前の地ですが、当時は加賀地方や能登地方(現在の石川県)も越前でした。
邪馬台国が越前だと言うならば、石川県の古代史にも触れなければならないのに、一切ありません。ひたすら福井県のお国自慢に終始しています。
さらに笑えるのは、海を渡って来た中国貴族は、紀元前五世紀に長江流域にあった「越」の人々だというのです。越前をはじめとする高志の国は、現代でこそ「越」という漢字を使っていますが、これは八世紀からです。高志の国を、越前・越中・越後という三つの国に分けるために、「こし」という訓読みに相当する「越」を使っただけで、中国の「越」とは全く無関係です。
時代も1300年もの開きがあります。
1300年とは、現代から奈良時代まで遡るほどの開きがあります。
もし本当に、中国の「越」の人々が紀元前五世紀にやって来たとすれば、漢字伝来も1000年以上遡る事になります。その説明も一切ありません。
ここまで来ると、もう泣きたくなります。
「中国貴族が対馬海流に乗ってやって来た」というメルヘンもいいですが、これでは地元の人達も納得しないでしょう。
この書籍はあまりにも荒唐無稽なので、怒りさえ感じました。この説の間違っている箇所を上げて行けば、何十冊もの本が書けそうです。
私はインターネットを使って邪馬台国越前説を発信していますが、謂れのない言いがかりを付けられる事がよくあります。
その理由が分かりました。この「卑弥呼の木像が出た!」を読んだ事のある人のクレームだったのでしょう。
私だって、こんな本を読んだら言いがかりを付けたくなります!
「似て非なり」。私の説と、この本の説とは全くの別物です。