こんにちは、八俣遠呂智です。
古代の長距離移動に関する考察の二回目になります。今回は、古代日本における大移動を考察します。
旧石器時代から縄文時代までは、原始的な狩猟採取の食料調達でしたので、生きて行く為の長距離移動は当たり前でした。獲物を捕まえては食料にするわけですから、「生産性のある移動」でした。ところが、水田稲作が始まって定住型となった弥生時代からの移動は異なります。食料を生み出さない「生産性の無い移動」になります。
まず、水田稲作文化が広がる前の縄文時代について考えてみましょう。
この時代は、狩猟採取、焼畑農業などによる食料を頼りにしていましたので、必然的に食料を求めて移動していました。安定した栄養確保ができず、人口扶養力が弱かったからです。人々の移動は、餌を求めて生きる為の必要不可欠な事でしたので、野生動物と同じレベルだったと言えるでしょう。これは、決して文明が遅れていたからではありません。土器という土から作った器を世界で最初に使い始めたのは縄文人ですし、翡翠などの宝石を加工してお金の役割を持たせた・つまり世界で最初に通貨経済を始めたのも縄文人です。縄文文明こそが世界で最も古い文明です。残念な事に、「文字」の発見が無い為に、認められていませんが。
それはさておき、弥生時代の水田稲作の伝来によって食料の安定確保が可能になり、人口爆発が起こって、「クニ」が発生しました。すると今度は、作物の出来不出来によって、争い事が起こるようになりました。局地的には、水を巡る争い・すなわち水利権の争いは頻発したでしょうし、豊饒で高い農業生産を上げられる土地には、他の地域からの侵略の手が伸びてきます。水や土地を巡る争いは、日本列島各地で起こっていた事でしょう。「倭国大乱」と呼ばれる小国同士の小競り合いがこれに当たります。
また、広域的には外国との付き合いも始まり、力のある国と無い国との上下関係も明確になってきました。
魏志倭人伝に記されているように、倭国から中国・魏の国へと朝貢を行ったのも、残念ですが倭国の方が力が無かったからにほかなりません。
また微々たるものではありますが、交易活動という長距離移動が始まったのもこの時代です。安定した食料生産が可能になって、人々に余裕ができたからこそです。不思議なもので、縄文時代には食べていけるだけで満足していたのに、食料に余裕ができると次から次へと新たなドロドロした欲望が沸き起こり、それがモチベーションとなって、様々な長距離移動が行われるようになって行ったのです。
これは何も、縄文人が純粋な人種で、弥生人が欲深い人種だったという訳ではありません。人類の普遍的な行動パターンですよね? 現代でも人々が食べていけるだけならば、大量殺戮兵器などは全く必要ないはずですが、そういう訳には行きません。欲望の膨張が根底に存在しているからです。逆に、そんなドロドロした欲望があったからこそ様々な発明がなされ、科学技術が進みました。そしてより安定した食料確保が可能になって、現代の暮らしやすい物質文明社会へと進化したのだとも言えます。欲望は、まさに「諸刃の剣」ですね?
では、古代日本において、文献に残っている最も古い長距離移動はなんでしょうか?
それは、一世紀に倭国から中国・漢の国への朝貢した記録が残っています。
後漢書倭人伝では、
「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見」
建武中元二年、倭奴国が貢を奉り朝賀す。光武は賜うに印綬を以ってす。安帝永初元年、倭国王帥升等 生口百六十人を献じ、願いて見を請う。
とあります。
建武中元二年(西暦57年)と、安帝永初元年(西暦107年)の2回に渡って、倭国から後漢へ朝貢した記録です。
博多湾の志賀島で発見された「漢委奴国王」印は、最初の朝貢に対する下賜品であるという説がありますよね?
西暦57年の事ですので、邪馬台国・卑弥呼よりも200年ほど前の時代です。
ただしこの文章だけでは、どのような行程で都・洛陽まで行ったのか? 何人で行ったのか? どのような交通手段で行ったのか? など、具体的な事は何一つ分かりません。
唯一、「生口160人を献じた」。つまり人材を160人連れて行って中国に残してきた事になりますので、少なくともその倍の320人以上、500人くらいの団体で朝貢したのではないでしょうか? その理由は、160人が往路の船の漕ぎ手だった場合、復路ではいなくなってしまいますので、別な漕ぎ手が必要になる事。道中の悪天候などの自然災害で死亡してしまう事。海賊・山賊などの人的災害を回避する為にある程度の人数を掛けて武装しなければならない事。などが考えられるからです。
文献史学だけを信じる古代史研究家たちは、ここで何の疑問も感じないでしょう。「ふむふむ、後漢の時代に2回も倭国から大所帯で中国へ朝貢したのだな。大したもんだ。」・・・それでおしまいです。
しかし私は納得できません。疑問だらけです。
さらに後漢の後の魏の時代には、3回の朝貢の記録が魏志倭人伝に記されています。卑弥呼の時代に二回、壹與の時代に一回です。また、魏の国から倭国へも、二回に分けて使者たちが訪れています。
数千キロにも及ぶ行程を、一体どうやって移動したのでしょうか?
弥生時代の日本列島の様子を想像してみましょう。
陸地は獣道しかなく、海を渡ろうにも丸木舟に毛が生えた程度の船しか無かった時代です。旅の途中には、獰猛な野生動物に遭遇する事も頻繁に起こったでしょうし、ならず者も多く存在していた事でしょう。様々な疑問が湧いてきます。
飛行機もない、豪華客船もない、新幹線もない、高速道路もない。それどころから、江戸時代に整備された街道すらない。船も北前船のような立派な帆船はおろか、丸木舟に波よけを付けた準構造船しかない。牛も馬もいない。木材を切り出したり加工したりする為の鉄器類もほとんどなく、船を作る為の道具すらない。
さらには、物々交換が主流の通貨経済の発達していない時代でした。人々が移動する間の食料はどうやって調達したのでしょうか? 行く先々で食べ物の略奪や村人の殺戮を繰り返しながら、目的地へ進んだとでも言うのでしょうか? もちろんその可能性も否定できませんが。
このように、邪馬台国時代の交通事情や食料事情を考えると、夜も眠れなくなります。
いかがでしたか?
今回は、弥生時代の人々の長距離移動の問題点をあげるだけで終わってしまいました。しかしながら、実際に倭国から中国へ朝貢が行われていたのは間違いないでしょう。ではどうやって? という疑問を投げかけると、邪馬台国の研究をしている人達は口を閉じてしまいます。プロの歴史家でさえも、「交通手段」に関する考察を行っていないのです。彼らにとって、どうやって倭国から中国まで行けたのか? 魏の使者たちは、どうやって倭国まで来れたのか? そんな事はどうでもよくて、単に古文書に書いてあるからそうなのだ、という盲目的な文献解釈をしているだけなのです。
私は、動画の中でよくプロの歴史家の批判をしています。しかし歴史作家の存在は認めています。彼らがいなければ誰も歴史に興味を持たないと思います。真実ばかりの歴史ドラマは、殺伐としていてつまらないものです。
私が最初に歴史に興味を持ったのは、小学生の頃の大河ドラマ・国盗り物語、でした。司馬遼太郎さんの原作ですね。ホント面白かった。毎週食い入るように見ていた記憶がありますし、50年前の映像ですがクッキリ蘇ってきます。
もちろん小学生でしたので、司馬遼太郎が書いている歴史が真実だとばかり思っていました。実際は全然違いますけどね。でも、歴史に興味を持たせてくれる、という点では、歴史作家には絶対かないません。とにかくファンタジーを持たせてくれるという点では、必要悪です。
まあ私の様に、邪馬台国について本当のことばかり言っていると、面白くもなんともありませんよね?
九州説のように、絶対に有り得ない事であっても、ファンタージを語り合って夢を見ている方が、皆さん楽しめると思います。あんまり具体的な、真実ばかり話していると、興ざめですよね?
私の動画に人気が無いのは、そういう事なのでしょう。