魏の使者は、どんな船で移動した? 倭国の技術が上

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の8回目になります。前回は、魏志倭人伝に記されている朝鮮半島の行路について、なぜ「水行」とう船を使った長距離移動だったのかを考察しました。そして、当時の政治情勢からやむなく水行を選んだのだと推測しました。そうは言っても、この海域は想像以上に困難な場所です。どうやって航海したのでしょうか?

 今回は、魏の使者たちが長距離移動した方法、つまり彼らが使っていた船はどのようなものだったかを考察します。

 魏志倭人伝における朝鮮半島での行程には、次の記載があります。

「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」

郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る。

 とあります。

これは帯方郡(現在のソウル市近郊)から、狗邪韓国(現在のプサン市近郊)までの行路です。明らかに船を使った移動で、朝鮮半島の西岸を出発して南下して、さらに東へ向かった事が分かります。

 この海域は、現代の船舶技術であれば何の問題もなく航海できますが、古代船ではそうは行きません。なぜならば、日本海の対馬海流のように一方向に流れる海流はありませんし、小さな島々が密集している海域ですので潮流変化が激しく起こるからです。日本の瀬戸内海ほど困難ではありませんが、何も考えずにスイスイ渡れるような海ではありません。

 「古代中国の造船技術は優れていた」

という一言でサラリと流してしまう古代史研究家が多いのですが、そういうわけには行きません。ある程度の根拠は見つけ出して行きましょう。

 まず、この航路の困難さは、1975年の実証実験で証明されました。角川書店社長 角川春樹氏が企画した「野生号」プロジェクトです。以前の動画でも述べました通り、この実験は完全に失敗でした。

 大型の古代船を復元して、ソウルから博多湾までを人力だけで航海する試みだったのですが、ほぼ全区間をディーゼル船で曳航されたというお粗末な結果に終わりました。復元した船が役立たずだったのです。この船は、6世紀頃の構造船でしたので、邪馬台国時代よりも技術的に遥かに優れたものだった、にも関わらずです。

 問題の一つには、人力による動力、すなわち手漕ぎだけを頼りにしていた事があります。しかしそれよりも、この海域を甘く見過ぎていた事が最大の要因だったと考えられます。

 先ほど述べましたように、この海域は動力になる一方向の海流が無い上に、潮流変化が激しいからです。

 では魏の使者たちは、この海域をどんな船で渡ったのでしょうか?

 邪馬台国時代の中国、すなわち魏・呉・蜀の三国志の時代の中国の造船技術はどんなレベルだったのかは、全く分かっていません。

 一般には、この時代の中国船は、赤壁の戦いの大型の帆船を思い浮かべるのではないでしょうか? 2008年に公開された「レッドクリフ」という映画がそれに当たります。この中では素晴らしい性能を持った古代船が登場しますよね?

 しかしそれはファンタジーでしかありません。「赤壁の戦い」自体が、現実に起こった事では無いからです。

 「三国志演義」という「三国志」を元に書かれた歴史小説の中で、話を面白くする為に「赤壁の戦い」が描かれているに過ぎないのです。これは17世紀に刊行された娯楽本であり、三国志よりも1300年も後に出版された読み物です。当然ながら、3世紀の中国船の時代考証もなされていません。

 三国志時代の中国船がどんなレベルだったかは、闇の中です。

 中国で立派な船が発明されたのは10世紀頃の事です。ジャンク船と呼ばれる帆船です。

よく古代中国の長距離移動手段として、長江流域の南部地域では造船技術や航海術が進んでおり、黄河流域の北部では馬を使った長距離移動に秀でていた、と言われています。「南船北馬」という熟語は、中国のこの状況から生まれました。

 実際に中国南部の武漢周辺は川や湖沼、運河が多いので船がよく用いられていたようです。武漢はコロナウィルスの発祥の地として有名ですが、先程述べました「三国志演義」の赤壁の戦いの舞台でもあります。この地で船による大戦争が行われたというファンタジーが描かれたのも、「南船北馬」が元になっています。ただし、三世紀の三国志の時代よりもずっと後の事です。

 なお12世紀頃には、ヨーロッパ諸国に先駆けて、中国の帆船による大航海時代が始まっているのは有名ですね?

中国人自らの発明によるジャンク船によって長距離移動が可能になり、アフリカ大陸までも航海しているのです。その後、ヨーロッパ諸国がこれを真似して、全世界を股にかける大航海時代が始まった訳です。

 中国の造船技術・航海術が花開いたのは10世紀以降です。武漢周辺で船が多く使われていたとは言っても、所詮は内陸部の内海での話です。外海に比べてはるかに波は穏やかですので、要求される性能は高くありません。

 ですので、魏志倭人伝が書かれた3世紀にジャンク船を建造できるような技術があったとは、到底考えられません。

 では、魏志倭人伝に書かれている魏の使者たちは、どのような船を使っていたのでしょうか?

先ほど述しました「野生号プロジェクト」の失敗でも分かる通り、手漕ぎの船では、帯方郡から狗邪韓国まで行くのは不可能です。風の力を利用するなり、何らかの動力が無い事には、到底無理です。かと言って、ジャンク船のような立派な帆船は、まだ存在しなかった時代です。さて、どうしましょう?

 古代における造船技術や航海術の分野では、中国と日本、どちらが上だったかを考えれば、その答えは見えて来るのではないでしょうか?

 古代の中国船は、日本の古代船と同じレベル、あるいはもっと低いレベルだと推測します。

そもそも中国人は陸の民です。船を使うとしても、黄河や長江、あるいは武漢周辺の湖といった内海、あるいは沿岸部の比較的波の穏やかな地域になります。外海を沖乗り航法でダイナミックに航海する必要性がありません。

それに対して、日本人は海の民です。数万年前に南太平洋から船で渡って来た縄文人を祖先に持ちます。さらに縄文時代を通して、環日本海地域をダイナミックに航海していた歴史を持ちます。

 状況証拠ではありますが、中国と日本の船の技術。答えは明らかでしょう。

 前々回の動画と同じ結論になりますが、魏の使者たちもまた「アウトリガー・セーリング・カヌー」のような原始的な帆船を使っていたのです。船の本体の横に補助的な小舟を繋ぐことで、帆柱を立てても転覆しないように安定性を確保したカヌーです。日本から中国に帆船の技術が伝播して、使われていたのです。

 「アウトリガー・セーリング・カヌー」の歴史もまたジャンク船と同じように、考古学的には10世紀頃までしか遡れませんので、異論はあるでしょう。しかしながら、「必要は発明の母」です。

 太平洋の島々の住民にとって、何万キロもの航海を行う必要があったがゆえに、長距離移動が可能な帆船の発明が数万年前にはなされていた、と見るのに無理はありません。

 そんな南の島から日本列島やって来た縄文人は、その後、日本海を反時計回りに移動しながら、帆船の技術を広めて行ったのです。

 やがてその技術は、中国大陸へも伝播しました。そして3世紀の中国では、日本列島から伝来した造船技術を元に、「アウトリガー・セーリング・カヌー」のような船を作っていたのではないでしょうか? 

 魏志倭人伝に記された魏の使者たちは、このような船を使って、倭国にまでやって来たのです。決して倭国日本よりも進んだ船ではなかったはずです。

 そして、10世紀に中国で発明されたジャンク船は、倭国から伝来した帆船の造船技術や航海術を元に、進化させて完成されたものなのです。

 いかがでしたか?

弥生時代を考える上では、その前の縄文時代から考えると視野が広がりますね? 大海原を動き回っていた縄文人たちは、決して原始人ではありませんでした。今回考察した造船技術・航海術だけでなく、縄文土器という芸術的な土器類や、翡翠などの宝石類の加工もあります。しかも、土器を使い始めた世界初の人種であり、宝石の加工を始めた世界初の人種でもあります。どうやら、帆船を使って大航海を始めたのも、世界初だったのかも知れませんね?

縄文人は世界で最初の文明人

 エジプト文明や黄河文明が起こる数千年前から、縄文人が文明を持っていた事は、近年よく知られるようになってきましたね? 土をこねて器にする、すなわち世界で最初に土器を使い始めたのは縄文人です。それ以上に凄いのは、世界で最初に、希少な石を削り出して加工して、宝石にしていた事です。

 新潟県糸魚川市の大角地遺跡や、福井県あわら市の桑野遺跡から見つかった宝石類は、7000年前のもので、世界最古です。これらの遺跡はあまり有名ではありませんが、もっと注目すべきだと思います。それは、宝石の役割です。

 私はこれらが通貨、すなわちお金の役割をもっていたと考えます。もちろん装飾の役割もあったでしょうが、もっと現実的な使い方があったのだと考えます。小さくても高い価値のある物に、お金としての役割を持たせたのではないでしょうか。鉄や青銅などの金属類が、後の時代にお金になって行きますが、それよりも数千年前には、日本列島でお金の役割を果たすものが誕生した。それが縄文人が作った宝石類だったと推測します。

 原始時代の物々交換から脱却した最初の人種、通貨経済を始めた最初の人種、それが私たちの祖先である縄文人です。