邪馬台国の使者たちは、備蓄米を食べたのか?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の14回目になります。邪馬台国が中国・魏へ朝貢した手段を突き詰めて行くと、古代の通貨制度にまで考えが及びました。勾玉や管玉がお金の役割を果たし、道中の食料調達に一役買っていた、という仮説です。

一方で魏志倭人伝には、倭国では既に租税を徴収していたとの記述があります。支配地域を旅するだけならば、村々でかき集めた年貢のような保存米があり、それを道中の食料にしていた可能性もありますね?

 これまでに、中国・魏への朝貢のような大人数の長旅において、道中の食料をどうやって調達していたのか? という点を考察しました。そして、金属製の通貨がまだ使われていなかった当時の倭国日本では、勾玉や管玉といった宝石類がお金の役割りを果たしていた。という仮説に至りました。

 一方、魏志倭人伝には次の記述があります。

収租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之

「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」

倭国日本ではこの頃すでに、権力者が収穫物を徴収していたようです。すなわち租税制度があって、集めた穀物は「邸閣」という高床式の大きな倉庫に蓄えられ監視されていた、という事です。

 米という保存の利く食料なればこその租税制度で、江戸時代の年貢の取り立てまで2000年以上に渡ってずっと日本列島に続いて来た慣習ですね?

 このような制度が出来上がっていたという事は、長旅の食料確保はこれを活用した可能性もあります。

邪馬台国の使者たちが女王國の支配地域を通過する際には、そこに蓄えられていた食料を使ったのでしょう。

ただし、100人も200人もの大人数の朝貢部隊が突然小さな村にやって来て、備蓄米を食い散らかしたならば、パニックになってしまいます。海賊や山賊と同じレベルですよね?

 するとやはり、先遣隊のような部隊が予め行く先々に御触れを告げて、食料確保を行っていたと考えるのが自然でしょう。そして、大人数の朝貢部隊が去った後は、租税義務の免除なり、勾玉や管玉などのご褒美なりを村々に与えて、女王國への忠誠心を向上させたのではないでしょうか?

 村々で備蓄されている年貢のような保存米を、道中の食料にしていた可能性は高いでしょう。しかしこれは、女王國の支配地域だけに成り立つ話です。邪馬台国から中国・魏への朝貢は、支配地域だけではありません。

 日本列島を東から西へ、邪馬台国から九州北部まで移動するだけならば問題はなかったでしょう。また、壱岐や対馬、朝鮮半島南部の狗邪韓国も、支配地域だったようですので、食料に困る事も無かったでしょう。問題は、狗邪韓国から帯方郡までの行路です。この地域は、魏志倭人伝には弁韓や馬韓として記されている国々があります。倭国の領土とはなっていません。そんな他国の領土を手ぶらで通過できたのか? 食料を分けてもらえたのか? という疑問が湧きますし、それどころか、下手をすれば身ぐるみ剥されて、朝貢品などの貴重品を強奪されたのではないか? とさえ思えてきます。

 実際には、これらの地域も問題なく通過していました。そうでなければ、魏志倭人伝に倭国による朝貢の記録は残りませんよね?

 想像するに、弁韓や馬韓とは、倭国日本の属国のような関係だった、下の立場であって逆らう事ができない関係だったのではないのか? と思えます。

一般に弁韓・馬韓は、五世紀頃には伽耶・百済と呼ばれたとされています。伽耶や百済も倭国の支配下だったのです。魏志倭人伝の朝鮮半島南端の狗邪韓国は、任那日本府とも呼ばれた倭国の支配地域でしたが、伽耶や百済も同じレベルの位置づけだったのでしょう。

 時代は下って6世紀の話になりますが、近畿地方の文明開化の時期には、学問や仏教など全ての文物が百済から入ってきています。また、それ以前の4世紀から5世紀には、邪馬台国の二本松山古墳から、伽耶や百済と全く同じ形をした日本最古の金の冠・銀の冠が出土しています。

 これらの状況証拠から、弁韓・馬韓という朝鮮半島南西部の国々は、倭国日本の準支配下にあったと見るのが自然です。とすれば比較的容易に、魏の植民地だった帯方郡まで進めたのも頷けます。

 もちろん倭国の使者たちは、これらの地域の食料を食い散らかすだけでなく、勾玉や管玉などのご褒美を与えた事でしょう。伽耶や百済の王族の墓から糸魚川産の翡翠の勾玉が出土するのは、こういう事情があったからです。

 食料調達のもう一つの可能性として、中国・魏の国へ向かう倭国の使者たちが、略奪を繰り返しながら旅をしていたケースです。人間の歴史を振り返れば、古代に遡れば遡るほど残酷な事をやっていますよね?

 しかし、さすがにこれはないでしょう。国を代表する使節団が、朝鮮半島南部地域に対して横柄な態度を取っていたならば、その後の時代に百済・倭国間の友好関係は築けなかったはずです。

 また、魏へ朝貢に向かったのは100人程度、多くても500人程度と想像されます。仮に略奪行為を繰り返しながらこの地域を通過したとしましょう。すると、「行きはよいよい、帰りは恐い」、になってしまいます。往路で略奪された人々は、復路では必ず復讐するに違いありません。古代人とは言っても、人間です。「信頼関係」を破壊する行為を行えば、必ずしっぺ返しを食らってしまいます。

 朝鮮半島南部の狗邪韓国から帯方郡までの行路は、魏志倭人伝の行路と同じように、船を使った移動でした。朝鮮半島東部の禿山地帯を、馬を使って移動する方が容易だったと思えますが、それをしていません。これは以前の動画で考察しました通り、当時の政治状況です。朝鮮半島東部には、辰韓などの国家があったとされていますが、それは後の新羅の国です。高句麗と並んで馬を使いこなす民族です。時代にもよりますが、倭国とはあまり良い関係が築けませんでした。典型的な例が、6世紀の磐井の乱や、7世紀の白村江の戦いです。これらの戦いはどちらも倭国と新羅とが敵対した戦いです。この戦いの後、倭国は朝鮮半島の権益をすべて失ってしまいました。そして、新羅が朝鮮半島南部全域を支配するようになりました。

 このような事情から、邪馬台国の時代にも新羅の領域を避けて、百済や伽耶の領域を通って帯方郡にまで移動したのだと推測します。

 いかがでしたか?

邪馬台国時代の長距離移動を考えると、単に交通手段の謎だけでなく、食料調達の謎。さらに追及すると、当時の租税制度や通貨制度、そして隣国との政治状況までも浮かび上がってきます。魏志倭人伝には淡々と邪馬台国までの行路が記されているだけなのですが、その行間からは当時の様々な状況が手に取るように見えてきます。

卑弥呼の三韓征伐と、新羅との関係

 卑弥呼をモデルとした人物に、神功皇后がいます。新羅・高句麗・百済を征伐したとされている古代史最強の女傑です。日本書紀の中では、新羅との戦いの記述があるだけで、高句麗や百済との戦いの記述はありません。また、新羅とは2回も戦っています。また、百済には戦いの拠点を置いていましたので、決して敵対していた訳ではありあせん。もちろん、そもそも神話の話なので信憑性には乏しいのですが、何らかの元ネタがあったとすれば興味深い話です。

 それは今回の動画とも関係しているのですが、朝鮮半島の中でも、新羅とは敵対していた、百済とは同盟関係だった。という事です。

 魏志倭人伝に記されている倭国への行路で、百済の領域を経由しているのは、その当時の政治状況から必然だったように思えます。