邪馬台国にあった造幣局。女王國支配の財源

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の12回目になります。

邪馬台国時代の中国・魏への朝貢を考えると、その道中にどうやって食糧調達していたのか? という疑問にぶち当たります。通貨の無かった時代にどうやって?

前回は、「勾玉」や「管玉」という弥生時代から作られ始めた宝石が、通貨の役割を果たしていたと推測しました。

今回は、これらの宝石が日本列島のどこで作られていたのかを調査・考察して行きます。

 「勾玉」や「管玉」という特殊な形に加工された宝石は、日本列島と朝鮮半島だけから出土するものです。

時代としては、弥生時代が始まる紀元前3世紀から、飛鳥時代の7世紀頃まで、およそ1000年にも渡ります。これだけ長期間作られていたにも関わらず、基本的な形に変化はありませんので、単なる装飾品とは考えられません。また、7世紀に「富本銭(ふほんせん)」と呼ばれる金属製の硬貨が使われ始めますが、時を同じくして、勾玉・管玉は姿を消して行きました。これは、宝石が「お金」としての役割を終えた事を示しています。

 このように倭国日本においては、金属製のお金が普及する以前には、宝石こそがお金だったと考えるのに無理はないでしょう。

 日本列島では、原石を加工して価値の高い宝石にする玉造りが、縄文時代から行われています。実は、世界で一番最初に玉造りを始めたのは縄文人だったのをご存じですか?

 ではまず、弥生時代を考察する前に、玉造りの原点とも言える縄文時代から見てみましょう。

 日本で最も古い、というか世界で最も古い、加工された宝石は、2ヶ所から見つかっています。

新潟県糸魚川市の大角地遺跡と、福井県あわら市の桑野遺跡です。共に7000年前の縄文時代早期の遺跡です。

 この写真を見て分かる通り、出土品の多くはアルファベットの「C」の形をしていて、2個で一対になっている場合が多いのが特徴です。これら2つの遺跡ではありませんが、ほかの遺跡の人骨の頭部の近くに対になって見つかった事から、「耳飾りである」、とされました。

また、中国大陸から発見されている「玦」という宝石の形に似ているので、玦状(けつじょう)耳飾と呼ばれるようになりました。

原石は、比較的硬度が低くて柔らかい滑石や蛇紋岩が用いられています。

 この玦状(けつじょう)耳飾は、おそらく最初は装飾品として製作が始まったのでしょう。これだけでも凄い事です。世界中で、そんな事を始めたのは、縄文人以外にいなかったのですから。

やがて、次第にその性質が変わって行きました。加工された宝石に高い価値が見出されたからです。

 この当時の商取引は石器時代と同じ「物々交換」でしたが、この玦状(けつじょう)耳飾の出現によって、装飾品を食料などの他の物品と交換するようになったのだと推測します。すなわち、玦状耳飾を基準通貨とした通貨経済の始まりです。

 先に述べました2つの遺跡に限らず、日本列島の多くの縄文遺跡からは、同じような玦状耳飾が出土しています。これはすなわち、列島全域で形状の標準化がなされ、人々がそれを通貨であると認識したのです。すると、どこへ行っても玦状耳飾さえ持っていれば、食料と交換できるようになった訳です。

 凄いですね? 日本人のご先祖様である縄文人こそが、通貨経済を始めた最初の人種。すなわち原始時代から抜け出した最初の文明人だったという事です。

 玦状耳飾の写真をもう一度見て下さい。Cの形状だけでなく、穴が開いている物も多く見られます。さらにこの拡大写真のように、半分になっているものもあります。

これは何かに似ていませんか?

 そうです。弥生時代から生産が始まった勾玉です。おそらく玦状耳飾では半分に割れやすかった為に、半円形にして、穴に紐を通して持ち運びを容易にしたのでしょう。

縄文時代に耳飾りとして始まった宝石の加工は、やがて勾玉という形へと進化して、お金としての役割に特化して行ったのです。

 また、使われた原石にも進化がありました。

縄文時代には、加工のしやすい柔らかい石が使われていましたが、弥生時代になると硬度の高い翡翠硬玉も使われるようになりました。これも、弥生時代なればこそです。鉄器の伝来があったからです。

 時代は下って、弥生時代末期。邪馬台国があった時代の主な玉造りは、ほとんどが女王國にて行われていました。主な工房を挙げて行きます。

邪馬台国・越前の林藤島遺跡、投馬国・丹後の奈具岡遺跡、伊都國・九州糸島の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡、が有名ですね?

林藤島遺跡は、鉄製の玉造り工具が2000点も出土し、この時代の出土数では日本一です。奈具岡遺跡は、玉造用以外にも鉄器が多く、出土量では日本一です。また、潤地頭給遺跡は九州では珍しい玉造遺跡で、「伊都国」という女王國連合の要のような場所なればこその遺跡です。

 これらの場所に共通しているのは、「鉄」の出土が多い事です。翡翠という硬度の高い原石を加工するには、鉄は必需品だったからです。

 邪馬台国、投馬国、伊都國、という魏志倭人伝に登場する3つの主要国に、特筆すべき玉造り工房が存在していたのは、当然と言えば当然の事ですよね?

 玉造工房は、現代で例えるならばお札を印刷する「造幣局」のようなものだからです。権力者の目の届く場所で行わなければなりません。

 もし、誰もが自分勝手に玉造りを始めて、それを流通させてしまったら大変な事になります。現代でも偽札を作って使用すれば、とても重い罪になりますが、弥生時代も同じだったでしょう。通貨経済が混乱して、収拾が付かなくなってしまいますからね?

 邪馬台国の林藤島遺跡、投馬国の奈具岡遺跡、伊都國の潤地頭給遺跡。これら3つは、存在すべくして存在した玉造り工房だったと言えるでしょう。

 いかがでしたか?

古代の玉造りと言えば、出雲地方の玉造温泉や、奈良盆地南部の曽我遺跡が有名ですね? あたかも出雲と近畿地方が玉造りの中心地だったような錯覚に囚われてしまいます。しかしこれらは、5世紀~6世紀の古墳時代のものです。邪馬台国よりもずっと後の事です。これらの工房で作られた勾玉などは、北陸地方で縄文時代から作られていた技法が受け継がれたようです。このように玉造り一つ取っても、地理と時代の前後関係を間違うと、とんでもない歴史推定がなされてしまいます。

中国・遼河文明の査海遺跡

 中国東北部の遼河文明をご存じでしょうか?

黄河文明や長江文明よりも古い8000年前の文明とされています。30年ほど前までは、この地から出土した「玦(けつ)」と呼ばれる加工された石が世界最初の宝石とされていました。その為に、日本の縄文遺跡から出土する同じような形をした宝石も、「玦状耳飾」と呼ばれるようになりました。

 ところが今回紹介しました桑野遺跡や大角地遺跡は最近発見された遺跡で、時代としては査海遺跡と同じ、あるいはもっと古い時代と推定されています。つまり、査海遺跡よりも古ければ、世界最初の玉造りは縄文人だった、という事になります。この辺の年代推定は大きな誤差があるせいでしょうか、あまりニュースにはなりませんでしたので、知っている方は少ないかも知れませんね?

 次回は、縄文人が世界最初の文明人だったという前提で、話を進めて参ります。