こんにちは、八俣遠呂智です。
古代の長距離移動の6回目になります。魏志倭人伝の邪馬台国への行路では、「陸行」という陸地を歩いたケースも散見されますが、それは特殊な場合に限られていた事を、前回までに示しました。長距離移動はやはり、「水行」という船を使った海路が主流だった事が分かります。ところが、当時の船の全体像が分かる出土品は全く無く、どのような技術レベルだったのかは、想像するしかありません。今回は、邪馬台国への行路の中から推測できる古代船の姿を考察します。
魏志倭人伝に記されている邪馬台国までの行路を俯瞰すると、ほとんどの行程で「水行」という船による移動がなされています。「陸行」という陸地を歩くという困難な長距離移動は、末蘆国から伊都國までの500里、邪馬台国から投馬国までの一月という二つに限られており、それぞれに明確な理由がある事をこれまでに示して来ました。
船を使った長距離移動には、不彌國から投馬国までの20日間、投馬国から邪馬台国までの10日間があります。これらは、邪馬台国・越前の井向遺跡の銅鐸に描かれていた大型の古代船を使った移動だったと推測しました。これを使って、九州や出雲あたりから徴収した大量の物資を積み込んで、邪馬台国まで運び込んでいたのしょう。
その当時の大型船は現代から見ればとても稚拙なものでした。櫂を漕ぐという人力だけでは十分な動力を得られるものではありませんでした。ところが北部九州から邪馬台国までは、対馬海流という自然作用が働いていますので、この力れを活用して、船による長距離移動を実現していたのです。
稚拙な船とはいえ、弥生時代としては最先端技術を駆使して作られたものだった事も、この絵から見て取れます。
舳先が上に向いている事から外海を航海する為の準構造船だと分かりますし、風の力を利用する為の帆を張る小さな帆柱が立っているのも分かります。
古代の大型船の場合、対馬海流を利用した沖乗り航法、すなわち沖合を航行していちいち港に立ち寄らない方法が用いられていました。「水行20日・水行10日」と書かれている通り、途中の港を飛ばして一気に渡り切る行程が書かれている事からも分かりますよね?
ところが、逆方向に船を移動させるには、沖乗り航法は使えません。なぜならば、対馬海流の向きが逆になるからです。投馬国から北部九州の不彌國へ向かうには、小型船の船団を組んで沿岸部を沿うように進む「地乗り航法」になります。
陸地に近い沿岸部では海流の影響は少なく、むしろ表面潮流のような、潮の満ち引きや、風の向きによる潮の流れの作用が大きく影響します。それを活用して移動する事になります。毎日毎日、港港に停泊しながら潮待ちをして、潮目の良い時に漕ぎだす事になります。これが地乗り航法です。
また、投馬国から北部九州の不彌國へ向かう場合には、大きな荷物は必要ありません。それは前回の動画で述べました通りです。運ぶものは宝石類のような軽くて価値のあるものだけです。ですので、小舟で十分です。
投馬国・但馬には、邪馬台国時代の袴狭遺跡から出土した船団の線刻画があります。
ワニがパックリと口を開けたような小型の準構造船の絵です。投馬国から不彌國へは、このような小船の船団を組んで、地乗り航法で毎日少しずつ移動して行ったのでしょう。
日本列島の中だけであれば、このような船を使った長距離移動が行われていたと推測できます。
一方、列島近海ではどうだったのでしょうか? 例えば、対馬海峡です。距離的には短いものの、西から東へ流れる対馬海流を南北に横切らなければなりません。その上に、沿岸から離れて航海しますので、地乗り航法という訳には行かず、沖乗り航法になります。この場合、一旦海流によって東方向に流されてしまった場合、陸地に戻るのは容易ではありませんよね?
対馬海峡は、魏の使者たちがやって来た行路であると同時に、対馬や壱岐に住んでいた人々も頻繁に往来していた場所です。魏志倭人伝には次のように記されています。
「對海國・・・無良田、食海物自活、乘船南北市糴 」
対海国・・・良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴(してき) す。
「一大國・・・耕田猶不足食、亦南北市糴」
一大國・・・田を耕すも、なお食するに足らず。亦、南北に市糴す。
とあります。
市糴とは、「商いして米を買い入れる」事を意味します。
つまり対海国・対馬では、良い田圃がない為に海産物を食べてはいるが、船に乗って南北方向に行って米を買い入れている。一大國・壱岐では、田圃を耕してはいるが十分ではなく、やはり船に乗って南北方向に行って米を買い入れている。という事です。
対馬や壱岐の住人がしょっちゅう対馬海峡を行き来していた事が分かります。
この様子は、現代の船の技術であれば不思議な事ではなく、何の問題もなく行き来していたと言えるでしょう。
ところが時代は三世紀の邪馬台国の時代です。どうやってそんな事が出来たのかを考察する必要があります。
まず、朝鮮半島南端から対馬までの最短距離は、約50キロほどです。また対馬から壱岐までの最短距離も50キロほどです。また壱岐から東松浦半島の呼子まではかなり近いものの、それでも20キロほどあります。
これらの海峡を一日で渡り切れない場合、港に立ち寄る事は出来ませんので寝ている間に対馬海流によって東方向に流されてしまいます。そうなっては戻る事はできません。必ず一日で渡り切らなければならないのです。
距離が50キロとし、人間が一日に活動できる時間を10時間とした場合、時速5キロ以上のスピードがないと、一日では渡り切れない計算になります。
果たして当時の船でそんな事ができたのでしょうか?
まず、船の種類です。島の住民が食料を買い求める為の船ですので、袴狭遺跡の線刻画に見られるような小型の準構造船と考えられます。乗組員は、一人か二人。その上に、買い入れた食料を積み込む事になります。かなりの重量です。そんな船を時速5キロで10時間も漕ぎ続けなければなりません。ほぼ不可能ですね?
現代の一人乗りシーカヤックならば、時速10キロ程度は出せますので、5時間漕ぎ続ければ対馬海峡を渡り切る事が出来るかも知れません。ところがシーカヤックは軽量のFRP(強化プラスチック)製ですし、食料を積み込んで移動する訳でもないので参考にはならないでしょう。
木製の二人乗りの小型の手漕ぎボートなら参考になるかもしれません。しかしその場合でも、多少の物資を積み込めますが、時速5キロで10時間も漕ぎ続けるのは不可能です。ましてや古代の船。一体どうやってこの海峡を渡り切ったというのでしょうか?
可能性の一つとしては表面潮流の利用です。
対馬海流が流れているとはいえ、二十四時間一方向に流れている訳ではありません。潮の満ち引きによる潮流変化は毎日一定時間起こっていますし、風向きによって表面の潮流変化が起こっています。
現代の漁師さんでも潮目を読むのに長けていますから、古代人であればなおさら、このような自然作用を活用していた事でしょう。しかしながら、距離は50キロ。時速5キロで10時間も継続的に一方向に移動させてくれるほど、自然環境は甘くありません。
ではどうしていたのでしょうか?
最も初歩的な考えですが、「帆を張っていた」という事になってしまうのではないでしょうか?
当時の小型船は丸木舟に波よけを付けただけの準構造船です。帆を張る為の帆柱でも立てようものなら、それだけでバランスを崩して転覆してしまいます。ではどうしたのか?
ヒントは、ミクロネシアなどの太平洋の島々で使われている「アウトリガー・セーリング・カヌー」にあるように思えます。船の本体の横に補助的な小舟を繋ぐことで、帆柱を立てても転覆しないように安定性を確保しています。
こんな船が邪馬台国時代にあったのかも?
歴史的には、このカヌーは10世紀頃、すなわち中国でジャンク船が発明される時期までしか遡る事はできません。しかし、それよりも遥か昔から使われていた可能性はありますよね?
なぜならば、日本人のご先祖様である縄文人は、一万年以上前に太平洋の南の島からやって来た人種なのですから。
残念な事に、古代船の技術レベルについては、このようなファンタジーを描く事しかできません。考古学的にこの時代の船の完全な形での出土が無いからです。しかし事実として、対馬海峡を頻繁に行き来したり、邪馬台国までの長距離移動が行われたりと、かなりの広範囲な活動があった事は確かです。その活動は、風の力を利用した船が無いと、辻褄が合わなくなってきますよね?
数年前に縄文人が日本列島にやって来た再現実験が行われました。「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」という実証実験です。5人乗りのカヌーを自作して、台湾北部から与那国島までを漕いで渡る実験でした。NHKで紹介されましたので、ご存じの方も多いでしょう。航海は成功したものの、手漕ぎの古代船の限界を見せつけられた内容でもありました。
これを見た限り、どうも縄文人がやって来た方法も人力の手漕ぎカヌーではなく、アウトリガー・セーリング・カヌーのような風力を利用した小舟が既に使われていたのではないのかな? と思わずにはいられませんでした。
いかがでしたか?
縄文遺跡から見つかっている丸木船には、帆柱はありません。弥生時代の船も完全な形で発見されたものはありません。唯一、井向遺跡に描かれた線刻画に小さな帆柱があるだけです。さらに時代は下って、飛鳥時代や奈良時代でさえも、帆柱を立てた船があったという明確な証拠はどこにもありません。しかし実際に、人々の長距離移動は確実に行われています。帆船のほかに何か有効な手段があったのでしょうか? 皆様はどうお感じになりますか?
船の技術の進化
8世紀の奈良時代の遣唐使船は、100人乗りだったという記述があります。日本書紀か古事記かは忘れましたが。この絵のような立派な帆船です。しかしこれは、10世紀以降の中国のジャンク船ですので、時代が異なります。弥生時代よりも500年も後に中国へ渡った遣唐使でさえも、その移動方法がハッキリ分かっていないのが現実です。
歴史作家によく見られる傾向ですが、「古代の技術は現代人が思う以上に進んでいた。」という根拠の無いファンタジーを語るのですが、それも一理あるかな、と、最近思うようになってきました。古代の長距離移動を考えると、帆を張った船でないと、ほぼ不可能に思えます。
しかし、妄想だけでなくて、何らかの根拠も見つけ出したものです。