八俣遠呂智へようこそ。
古代史最大のミステリー・邪馬台国。魏志倭人伝という中国の歴史書の中にだけ登場する日本最古の超大国。そして女王・卑弥呼。
その軌跡を知ることができない卑弥呼は、果たしてどういう人物だったのでしょうか?
今回お送りするのは、「卑弥呼は神功皇后だった。」という説について、さまざまな角度から検証してみたいと思います。
日本書紀に記されている年代に素直に従って、年表上に記して行きます。
卑弥呼の有力候補は、天照大御神、倭迹迹日百襲姫命、神功皇后、の3人です。
この中で時代的に最も合致しているのが神功皇后です。
神功皇后は、諱を気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)といい、第十四代・仲哀天皇の皇后です。天皇崩御から息子である応神天皇が即位するまで、初めての摂政、すなわち女王として、約70年間君臨したとされています。
日本書紀では、神功皇后の時代を一つの章として、詳細に書かれています。その中には、倭国が魏の国へ朝貢した内容が、魏志倭人伝からそっくりそのまま引用されています。
もちろん、邪馬台国や卑弥呼という文字は見当たりませんが、神功皇后を倭国の女王・卑弥呼を多いに意識したが故の記述と考えられます。
この事から、邪馬台国論争の起点となった江戸時代の先駆者・新井白石以来、多くの学者たちが、「神功皇后こそが卑弥呼である」としています。
神功皇后の実績を簡単にまとめてみます。
渡来人の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)を祖先に持ちます。この渡来人はその名の通り、北陸地方・越前の敦賀を拠点としていました。そのせいか、神功皇后も同じ敦賀の角鹿笥飯宮へ奈良盆地から居を移しています。彼女を追いかけるように第十四代・仲哀天皇もまた、敦賀へ移り住みます。
やがて九州地方で反乱が起こりました。その鎮圧の為に、自らその地へ赴き戦闘を繰り広げます。熊襲征伐です。その最中に夫である仲哀天皇は崩御してしまいましたが、彼女のお腹には新しい命が宿っていました。後の第十五代・応神天皇です。
神功皇后は身重ながらも朝鮮半島に渡り、新羅・百済・高句麗を征伐しました。三韓征伐として有名ですね。
これらの逸話から、神功皇后は古代史最大ヒーローとしてもてはやされてきました。
神功皇后と卑弥呼との類似性は、なんと言っても日本最初の女王だった事です。
日本書紀では仲哀天皇亡き後、摂政として皇位についていますので、天皇家で最初の女性天皇とも言えます。実際に明治時代までは、第15代天皇という扱いでした。その後、大正時代に皇位系譜が改変されて、第十五代天皇は、息子の応神天皇とされてしまいました。天皇の系譜が改変されたのは、つい百年前ですので、案外軽いものですね。
改変された理由は開示されていませんが、おそらく神功皇后の先祖が都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という渡来人であり、天皇家とは血統の繋がりが無い事が理由だったのでしょう。
いずれにしても、日本書紀の上では、70年間に渡って日本の国政のトップに立っていた人物ですので、女王・卑弥呼との共通性が見いだせます。
神功皇后は巫女ではありません。あくまでも皇后であり、後に摂政になった政治家です。
ただし、古代に於ける政は、祭祀行為と密接に結びついていますので、巫女としての役割も担っていました。「政治家=巫女」とも言える時代です。実際に神功皇后は、熊襲征伐の際に戦の方法についての神の教示を受けるために、幾度も神社に詣でて神託を受けています。
一方、卑弥呼の条件として、巫女である事を絶対条件に挙げる論者が多いのですが、これはいささか疑問です。魏志倭人伝には巫女である様子を、「事鬼道能惑衆」(鬼道を用いて衆をよく惑わす)と一言だけ触れていますが、それ以外は「女王」としての記述しかありません。つまり、卑弥呼はあくまでも女王であって、巫女の要素も僅かにあったに過ぎないという事です。ですので、神功皇后が卑弥呼である可能性は、ここでも高いと言えるでしょう。
神功皇后は、仲哀天皇を亡くした後はずっと独身でした。これも卑弥呼と一致しますね。
魏志倭人伝には卑弥呼について、「年已長大、無夫壻」「とても歳をとっており、夫はいない」とあります。
神功皇后が卑弥呼ではない、とする論者の多くは、神功皇后には夫がいた事を挙げますが、これは明らかに誤りです。それは、魏志倭人伝に記された卑弥呼は、年老いた時代の姿ですので、若いころに夫がいたかも知れないし、子供がいたかも知れません。「生涯独身で子供もいなかった」などとは、どこにも書かれていません。
神功皇后の摂政としての在位期間は、70年間に渡っています。これは現実離れした長期間です。神功皇后に限らず、この時代の天皇は100歳を超える者も多いので、神話の中の誇大表現であると考えられます。
一方この在位期間に、倭国が魏の国へ朝貢した内容が、日本書紀の中に記されています。神功紀の中に、魏志倭人伝の内容がそっくりそのまま引用されているのです。朝貢は三回行われており、卑弥呼の時代に二回と、卑弥呼の宗女・壹輿の時代に一回です。この三回すべてが、神功紀には記されているのです。
これはもう明らかでしょう。日本書紀の編者である舎人親王が、邪馬台国や卑弥呼を強く意識しながら、神功皇后のプロフィールを描写したと想像するに、難くないと思います。
なお、神功皇后の在位期間は、卑弥呼と壹輿の両方に時代に跨っていますが、これは二人の女王を神功皇后という一人の女王として描いたのではないでしょうか。
いずれにしても、天照大御神や倭迹迹日百襲姫命のような卑弥呼候補とは異なります。単なる巫女としてではなく、神功皇后の場合には権力者として、より具体的に描かれています。
では神功皇后が卑弥呼だとした場合に、邪馬台国の場所はどこになるでしょうか?
魏志倭人伝には次のように書かれています。「邪馬壹國女王之所都」(邪馬壹國、女王の都する所)。これを元に考えれば、神功皇后が都とした場所こそが邪馬台国という事です。
70年間に渡って大和王権の摂政として、彼女が都を置いた場所は、近畿地方や九州地方なんかではなく、角鹿笥飯宮という場所です。
現在の北陸地方、越前の国・敦賀がその地です。
これらのように、日本書紀から見えてくる女王・卑弥呼は神功皇后であり、邪馬台国の場所は、北陸地方の越前という結論に達します。
いかがですか? 神功皇后が卑弥呼である、という説はかなり説得力があると思います。それは、卑弥呼はあくまでも「女王」であり、「巫女」としての要素は付加的なものだからです。また、卑弥呼は魏へ使者を送った事柄について、日本書紀の「神功紀」に引用があるのも大きいですね。しかしなぜ「邪馬台国」や「卑弥呼」という文字が、記紀には現れないのか?やはりこれは、大和王権にとっての邪馬台国は、触れたくない存在だったのでしょう。