前回、邪馬台国に現存する卑弥呼の生まれ変わりが見つかりました。
私がイメージしていた卑弥呼は、アパホテルの社長・元谷芙美子氏でした。ただなんとなくでした。
ところが、彼女の経歴を調べたところ、生まれ育った場所が卑弥呼の墓のすく近くだったのです。その後の調べて、彼女は強烈な愛国思想の持主だとも知りました。相応しいですね。卑弥呼はアパ社長です。
これに絡めて、卑弥呼の墓の近くで生まれ育った著名人の中から、魏志倭人伝に登場する人物を特定して行きます。
今回は、卑弥呼の弟です。
魏志倭人伝には、次のような記載があります。
卑弥呼には夫がなく、弟がいて、国を治めるのを助けている。
歴史書に名前が出ない「脇役」のような卑弥呼の弟ですが、実際に邪馬台国を取り仕切っていた影の実力者は、この人物だったのかも知れません。
前回の動画では、卑弥呼はアパホテル社長の元谷芙美子さんである事が分かりました。今回は、この弟にふさわしい人物を、卑弥呼の墓の近くで生まれ育った著名人の中から探して行きます。
この写真は、福井県福井市にある卑弥呼の墓を中心としたものです。現地では「丸山」と呼ばれている辺鄙な場所です。
卑弥呼が生まれ育ったのは、この近くの中学校の学区内です。
卑弥呼の弟もまた、このエリアで生まれ育ったはずです。該当する男性の著名人を探したところ、ゾロゾロ出てきました。さすが、パワースポット。
まず、2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎博士が、卑弥呼の墓の南側のこのあたりにお住まいだったようです。
次に、直木賞作家の藤田宜永さんが、このあたりだそうです。都会的な作風の彼が、こんなに田舎だったとは!
さらに、著名な音楽家がお二人いらっしゃり、それぞれ、このあたりと、このあたりだそうです。
また、俳優の津田寛治さんがこのあたりで生まれ育っています。
これらの情報は、現地の人から聞いた話です。かなりの誤差はありますので、お許し下さい。
こうして見ると、やはり卑弥呼の墓の霊力でしょうか? しょぼい田舎町の割に、著名人の密度はかなり濃いです。
まず、南部博士です。
南部陽一郎博士が卒業されたのは、卑弥呼と同じ学校で、先輩にあたります。その後、東京大学などをご卒業されて、さらにアメリカに渡って研究を続けられ、2008年に素粒子理論の研究でノーベル物理学賞を受賞されています。
研究内容があまりにも一般庶民の生活からはかけ離れている分野なので、どういう功績があったかを知っている人は少ないのではないでしょうか。
南部博士を有名にしたのは、研究の内容よりも、むしろ国籍の問題でした。
ノーベル賞の受賞が決定した際に、日本では日本人が受賞、アメリカではアメリカ人が受賞と報道されました。
その当時、南部博士は既に日本国籍を離れ、アメリカ人になっていたからです。ですので、アメリカでの報道が正しく、日系アメリカ人一世のドクター・ナンブが受賞したという事です。卑弥呼・アパ社長をはるかに凌ぐ、濃すぎる人物です。
なお、博士は2015年に既にお亡くなりになっています。
そんな南部博士のルーツを辿っていくと、卑弥呼の墓のすぐ近くというパワースポットにあったのです。
博士も子供のころ、卑弥呼の墓で遊んでいたのかも知れませんね。
しかし、さすがに卑弥呼の弟という「脇役」にもってくるには、あまりにも失礼です。また機会があれば、古代の別の人物に当てはめる事にします。
次に、直木賞作家の藤田宜永(ふじたよしなが)氏です。彼は、犯罪小説、冒険小説、推理小説、恋愛小説などを執筆し、『愛の領分』にて第125回直木賞を受賞した人気作家です。
また、2017年には吉川英治文学賞も受賞しています。
都会的な作風ですので、東京のど真ん中で生まれ育ったものとばかり、思っていました。
経歴は、
1950年に福井県福井市に生まれ、地元の中学を卒業後、母親との折り合いが悪くて東京へ飛び出しました。東京では、早稲田大学高等学院、早稲田大学へと進むものの中退してしまいます。そして日本を飛び出しフランスへ渡って、作家となりました。彼もなかなかの歌舞伎者ですね。
なお2020年1月にお亡くなりになっています。
彼の出身中学は公表されていませんが、地元の方のお話によると、廃校になった中学校の可能性が高いとの事でした。
この学校は、邪馬台国時代の鉄器出土数が日本一多い林藤島遺跡の真上にあった学校です。卑弥呼の墓からは、北東方向へ1キロの場所です。まさに邪馬台国の申し子のような存在と言えましょう。
ただし彼もまた、卑弥呼の弟という「脇役」にしてしまうには、もったいないですね。機会があれば、別の人物に当てはめる事にします。
また、全国的な知名度は低いものの、音楽の世界では有名な人物が二人も、この地から出現しています。
指揮者の小松長生氏と 作曲家の笠松泰洋氏です。私は音楽の世界は全く知らないので、どれだけすごい人なのかは分かりませんので、現在のご活躍の様子だけを簡単に紹介します。
小松長生氏は、日本国内の様々な楽団の指揮者を務められており、近年では、日本フィルハーモニー交響楽団を率いて
チェコのプラハで公演を行うなど、世界を股に掛けてご活躍されているそうです。
笠松泰洋氏は、演劇の舞台音楽の作曲で有名だそうです。蜷川幸雄や江守徹が演出する作品などに楽曲を提供しています。近年では、劇団四季の「恋に落ちたシェイクスピア」の楽曲を担当しています。
面白いのは、お二方とも卑弥呼と同じ公立中学・同じ公立高校を卒業されている事です。出世街道の黄金コースとも呼べるでしょう。そして、お二方とも東京大学へ進学された後に、音楽家になっています。東京大学へ入学する人などは、この世にゴマンといますが、その後に音楽家となって大成功を収めるのはほんの僅かです。しかもお二人とも同じ場所から。しかも子供時代には、卑弥呼・アパ社長と同じコースをたどっているのです。これも卑弥呼の墓のパワーでしょうか?
卑弥呼の弟と認定するには、このお二方とも、やはり「脇役」にしてしまうには、失礼ですね。
津田寛治さんは、俳優です。数多くの映画やテレビドラマ、舞台、アニメーション作品での声優や、映画の監督・脚本を務めるなど、幅広く活動されています。俳優としては、主に「脇役」です。
もうこの時点で決定ですね。卑弥呼の弟は、津田寛治さんです。
津田寛治さんの経歴は、
1965年 福井県福井市に生まれる
やんちゃ坊主が行く事で有名な地元高校へ進学するも、中退。俳優を目指して東京へ旅立つ。
なかなか役者としての芽が出ない中、アルバイト先の喫茶店で、あの北野武に直談判して、出演をつかみ取ったという逸話があります。なかなかのツワモノですね。
その後、北野監督の『ソナチネ』にて映画デビューを果たし、映画やテレビドラマなどでコンスタントに出演するポジションを勝ち取りました。
主に個性的な脇役が多いようです。
津田寛治さんが生まれ育った場所を卑弥呼の墓で照らし合わせてみましょう。
小学校は、福井市立円山小学校。中学は、福井市立大東中学校です。まさに、卑弥呼の墓にくっついたような場所です。
この写真を撮影した位置が、津田寛治さんが生まれ育った地域だったようです。
田んぼの広がるのどかな田園地帯です。そしてその目の前に、この卑弥呼の墓がポツンと座っていました。
津田さんの子供時代は、毎日この景色を見ながら学校に通ったのでしょう。
最初に述べたように、魏志倭人伝には卑弥呼に代わって国のマツリゴトを執り行っていたのが、弟です。
能力の高い「名脇役」として弥生時代を生きていた人物ですので、ピッタリです。
卑弥呼の弟は、津田寛治でした。
卑弥呼の墓の周辺は有名人の密度が高いですね。都会であれば半径一キロのエリアには五十万人は住んでいますが、ここは一万人もいないと思います。今回は男性だけでしたが、女性の有名な小説家もこの近所です。
現代の有名人を古代人と結びつけてみるのは楽しいものです。
今後、魏志倭人伝に登場する人物を、現地の著名人と結びつけて、「比定」していきます。
さらに、いろんな地域のいろんな時代の人物も、現代の有名人に当てはめて行くつもりです。
これは、邪馬台国論争よりも、はるかに面白い!
次回は誰にしようかな?