実在の可能性がある最も古い天皇は、第二十一代雄略天皇かも知れません。それ以前の天皇には、存在を匂わす物的証拠は何もなく、文献史学上のファンタジーにすぎないからです。但し、雄略天皇の物的証拠は、埼玉県と熊本県という、近畿地方から遠く離れた場所から出土した鉄剣です。記紀に記される天皇家の祖先というよりも、地方の豪族だった可能性も高いと言えます。もしかすると偽書に記されている北関東の豪族かも?
今回は、雄略天皇に焦点を絞って、その実在性を考察します。
雄略天皇は、日本書紀の上では第二十一代天皇で、諱を大泊瀬幼武尊(おおはつせえわかたけるのみこと)といいます。実在したとすれば5世紀頃で、62歳で崩御されています。このあたりの天皇になると、現実的なご年齢で崩御されています。但し、古事記では124歳です。
雄略天皇が眠る陵墓は、大阪府羽曳野市の丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)と、宮内庁では指定しています。これもまた大した根拠はなく、実際の被葬者は明らかになっていません。
雄略天皇が、「実在した可能性のある最初の天皇」とする説の最大の根拠は、諱の銘が入った鉄剣が、発見されている事です。
また文献史学上では、『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なることや、『万葉集』や『日本霊異記(にほんりょういき)』の冒頭にその名が掲げられていることから、この天皇の時代が歴史的な変革期だという推測がなされています。
日本書紀によれば、反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せてヤマト王権の力を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨したとされます。
ただし、このように優れた能力を発揮してヤマト王権の力を拡大させた反面、気性の激しい暴君的な所業も多く見られました。皇位を継ぐために肉親すら容赦なく殺害し、反抗的な豪族を徹底的に誅伐するなど、自らの権勢のためには苛烈な行いも躊躇せず、独善的で平気で人を処刑することも多かったようです。
国内的な実績としては、重臣の葛城氏を焼き殺したり、有力地方豪族の吉備氏の反乱を征伐したり、播磨の国や、伊勢の国の豪族を討伐するなど、数々の武勇が記されています。
対外的には、高句麗、新羅、百済との戦いが記されています。神功皇后の三韓征伐を彷彿させる武勇ですね。
古代史研究家の間では、宋書や梁書などの中国史書に登場する倭の五王の一人・武として比定される事が多く、激しい行動力の記述から人気のある天皇です。
雄略天皇が、「実在した可能性のある最初の天皇」とする説の最大の根拠は、諱の銘が入った鉄剣が、発見されている事です。
稲埼玉県行田市の稲荷山古墳より出土した鉄剣には、「辛亥の年七月中、記す」から始まる金象嵌銘があることが確認されました。その金象嵌銘には「獲加多支鹵大王」という当時の大王の名が記されており、この「獲加多支鹵」(カクカタシロ)が、雄略天皇の諱である「ワカタケル」と酷似しているというのです。
日本書紀では、大泊瀬幼武(おおはつせえ)「幼ない武」と書いて、「ワカタケル」と読ませます。
稲荷山古墳の鉄剣には、獲加多支鹵(カクカタシロ)と書いて「ワカタケル」と読ませます。
んー、微妙というか、全く似てないと思うのですが。こじつけ感、半端ないですね。
鉄剣には、このほかにも王の名前が記されているのですが、雄略前後の天皇の諱と一致するものはありません。
この詳細は、またの機会に紹介します。
一方、熊本県の江田船山古墳の鉄剣は、保存状態が悪く大王名の部分が相当欠落していました。
その銘文はかつては、第十八代反正天皇の諱とされていました。ところが、稲荷山古墳の鉄剣の出土を受けて、雄略天皇の諱へ読み替えたといういわくつきのものです。
これもまた、結論ありきで強引に曲解しているのです。調子のいい話ですねぇ。
どうしても古代史研究は理論的でなく、情緒的です。誰を最古の天皇にしたいかによって、出土品の文字の読み方まで平気で変えてしまうのです。
雄略天皇の、文献史学上の活躍と、考古学上の出土品の位置を、地図で示します。
日本書紀によれば、畿内の重臣・葛城氏を焼き殺し、播磨の国、伊勢の国、吉備の国を討伐しています。また、高句麗、新羅、百済との戦いの記録もあります。
一方、考古学的には、埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山遺跡から鉄剣の出土があります。
これだけ見れば、雄略天皇の時代に、ヤマト王権の支配が九州から関東にまで及んでいたという推測が成り立ちます。
ところが、これだけ勇ましい雄略天皇の活躍があったならば、それらの戦い痕跡を示す証拠の品々が、近畿域内にあるはずなのに、一切ありません。
これは、初代・神武天皇や、第十代崇神天皇にも言える事です。文献史学上では勇敢な戦いの記録があるにも関わらず、考古学上では何も無いのです。
これらの事から、雄略天皇もまた架空の人物だと推測します。
日本書紀や古事記は、中国史書からの盗作や、近畿地方以外からの物語がごちゃ混ぜになった、継ぎ接ぎだらけの歴史書です。架空の人物の可能性が高いでしょう。しかしながら、雄略天皇の物語には元ネタがあったのかも知れません。
その元ネタを推測すると、雄略天皇は、関東地方の豪族の統領をモデルにしたのではないでしょうか。埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣には、獲加多支鹵(カクカタシロ)以外にも、何代にもわたる系譜が書き連なっています。それらは、近畿地方の天皇や豪族に全く一致しない名前ばかりです。
日本書紀は、近畿地方の天皇家が唯一正統な歴史を持っているとする歴史書です。逆に言えば、近畿地方以外の勢力の歴史書は、「あってはならない事」なのです。
当然の帰結として、それらは偽りの書とされ、排除されます。
雄略天皇が実在していたならば、関東勢力を主人公とした物語のある「偽書」こそが、正しい歴史書と言えるでしょう。
雄略天皇の実在説については、可能性は高いでしょう。五世紀後半ですので文献史学だけでなく、考古学的な根拠も散見されます。但し、決定的な根拠はなく、まだまだ大和王権は近畿地方だけの勢力だったように思えます。
雄略天皇から武烈天皇に至る様々な逸話には、中国史書からの盗作が目立ちます。特に残虐行為の内容は、中国の得意技ですので、そっくりそのまま引用されています。いずれ中国史書についても考察するつもりです。次回は、王朝交代の大本命・継体天皇です。