神話の天皇たち、実在したの? 年代を曲解してみた。

 こんにちは、八俣遠呂智です。

 日本には固有の暦があります。皇紀と呼ばれる暦で、神武天皇が即位した紀元前 660 年 2 月 11 日を皇紀元年とするものです。第二次世界対戦前までは、西暦を使わずに皇紀を使っていました。

 しかしこの暦をまともに信じれば、百歳を超える初期の天皇がぞろぞろ存在する事になってしまい、非現実的です。

そこで、明らかに神話でしかない初期天皇が実在したかのように、様々な辻褄合わせが行われています。

 今回は、古代史研究家たちによる皇紀の曲解の典型例をご紹介します。

 日本書紀に記されている初期の天皇の年齢や在位期間はむちゃくちゃです。

これをそのまま信用して出来た暦が、皇紀と呼ばれる暦です。

まずは、日本書紀の年代をそっくりそのまま年表にしてみます。すると、

初代・神武天皇の即位は、紀元前660年即位で、在位期間は79年間。127歳で崩御。

六代・考安天皇は、紀元前392年即位で、在位期間は102年間。137歳で崩御。

十代・崇神天皇は、紀元前97年即位で、在位期間は61年間。120歳で崩御。

十六代・仁徳天皇は、313年即位で、在位期間は60年間。123歳で崩御。

二十一代・雄略天皇は、456年即位で、在位期間は24年間。128歳で崩御。

 などとなっています。

そもそも初代・神武天皇が紀元前七世紀という水田稲作が伝来したばかり、つまりほとんど縄文時代といえる時期に即位したというのは、支離滅裂です。しかも、古代の天皇は本当にそんなにご長寿だったのでしょうか?

生物学的に有り得ませんよね?

このあたりの天皇は、考古学的な根拠が全くありませんので、明らかに神話の天皇です。

まあファンタジーですので、それはそれで良いのです。

ところが、どうしても神武天皇以来の万世一系に拘る一部の古代史研究家たちによって、年代を改変し、時代的、生物学的に可能な年齢へと曲解してしまう行為も、いまだに散見されているのが実情です。

 天皇の在位期間や年齢を曲解する理由は様々です。最も多い理由は、先ほど述べたように、

・神武天皇以来の万世一系に辻褄を合わせるため

そのほかにも、中国史書、特に倭の五王が記されている宋書などの記載に、日本書紀の神話の天皇を合わせ込みたいため

。さらには、邪馬台国九州説を正当化し、邪馬台国東遷説

という調子の良い話をでっち上げたいため。

などなど、様々な思惑の上に、初期天皇の年代の曲解が行われています。

 今回は、そんな中で最も人気のある年代曲解をご紹介します。

結論から言いますと、神武天皇の即位を西暦125年頃としてしまう曲解です。実に800年もサバを読むというファンタジーです。

 ではまず、結論ありきの曲解後の暦を示します。

神武天皇の即位が西暦125年・・・

考安天皇が193年

崇神天皇が266年

仁徳天皇が378年

雄略天皇が456年で、同じとなります。

こうしておけば、年齢が生物学的に可能になりますし、初代天皇の即位が弥生時代後期で、。

また、中国の正史・宋書に記されている倭の五王とも一致させる事ができるようになります。というよりもむしろ、宋書に記されている倭の五王が朝貢してきた年代が正確に分かっているので、それに無理やり日本書紀の年代を合わせてしまったというのが実際です。

学者さん達が一生懸命、このような調子のいい暦を捏造した訳です。

しかし、ここに至った根拠を示さない事には誰にも支持されませんので、色々な曲解が提示されています。

 それらをこれから列挙して行きます。

 曲解の根拠のほとんどは、日本書紀と魏志倭人伝からの拡大解釈です。

まず最初に、日本に初めて太陰太陽暦が導入されたのは西暦 554 年だと、日本書紀に記載されています。

この事から、554年以前の暦は、現在の一年の解釈とは異なる、という前提に立っています。

 ちなみに554年は、実在性の確実な最初の天皇である第26代継体天皇が没した時期に近い年代です。

継体天皇以前の天皇は神話の人物たちですので、日本書紀の中で年代操作が行われた事は、ある程度の説得力は持ち得ます。

 では、この554年以前の暦はどうだったのでしょうか?

今度は、魏志倭人伝からの拡大解釈です。

魏志倭人伝の内容には、著者・陳寿が書いた内容の他にも、注釈が入っているのをご存じでしょうか?

裴松之(はいしょうし)という陳寿よりも100年ほど後の人物が、一ヶ所だけ注釈を入れています。

その内容は、

「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀

「魏略いわく、その習俗は正暦・四節を知らない。ただし春耕し秋収穫を計って年紀とす。」

とあります。魏略とは魏志よりもさらに古い魏の歴史書で、魏志倭人伝の元ネタになったとされる書物で、現存はしていません。裴松之(はいしょうし)は、そこから引用しているという事です。

この注釈の内容では、「倭人たちは正しい暦を知らずに、春に耕し、秋に収穫したことで年紀としている。」とだけ書かれているのです。

 これを以って曲解好きな日本の歴史家たちは、邪馬台国の時代には現在の一年ではなく、春が来て一年、秋が来て一年。つまり現在の暦の二倍の年数を数えていた。と主張しているのです。

 本当にそうでしょうか? 私にはそうは読めません。単純に、正しい暦を持っていなかったけれども、耕して収穫するという農業の周期を以って、一年としていた。普通に一年。ただそれだけの事だと思うのですが・・・。

 まあ、いいでしょう。ここは歴史家たちの曲解に従う事にして、太陰太陽暦の一年が、当時の倭国では二年とカウントされていたことにします。

 この魏志倭人伝の注釈からの曲解は、「二倍暦年」と呼ばれる方法なのですが、この頓珍漢な方法で、西暦554年以前の暦の年代を改変してみます。すると、神武天皇の即位は紀元前53年になります。 しかしこれでも、宋書に記されている年代とは200年ほど合いません。まだまだ曲解が必要です。

 さらに年代をいじくりまわして、中国史書に無理やり合わせ込まなければなりません。

今回の暦の曲解は、ここまでとします。次回に、日本書紀の年代を、中国史書の年代にピッタリと合わせ込んでみせます。

 

 いかがでしたか?

二倍暦年なんて、馬鹿馬鹿しいですよね?

こんなことをして何になるのでしょうか?

まあ、古代史研究は人畜無害なファンタジーですので、何でもありですからね?

古代史研究家たちが楽しめれば、それで良いのかも知れません。

そういう私も、頓珍漢な説を大真面目に唱えて、散々非難を浴びているのですが?