妄想の産物 崇神天皇

 万世一系は過去のものとなっていますので、実質的な初代天皇は誰か? に焦点が移ります。

前回の動画では、崇神天皇、応神天皇、武烈天皇、継体天皇の四つの王朝交代説がある事を示しました。

今回はまず、第十代崇神天皇説に着目します。それ以前の天皇に比べて記紀での記述が一気に増えている事、および、騎馬民族が倭国を征服したのでは?というファンタジーから、人気のある天皇です。

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概要

 崇神天皇は、日本書紀の上は第十代天皇で、諱を御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのすめらみこと)といいます。紀元前一世紀頃に活躍し、119歳で崩御されています。古事記では168歳での崩御です。とても長生きされていましたね。

 崇神天皇が眠る陵墓は、奈良県天理市柳本町の行燈山古墳(あんどんやまこふん)と、宮内庁では指定しています。但し、どの陵墓にも言える事ですが、大した根拠はありません。この古墳は四世紀前半のものですので、ずいぶん後のものです。

 崇神天皇が、「実在した可能性のある最初の天皇」とする説の根拠は、大きく二点あります。ひとつには、

日本書紀での記述が、先代の開化天皇までに比べて遥かに多い事。もう一つには、騎馬民族征服説の主人公とした説に枝葉が付いた事、によります。古文書や歴史小説といった文字の上でのファンタジーに過ぎず、科学的な根拠は、全くありません。

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四道将軍

 日本書紀に記されている崇神天皇の実績は、三つあります。

まず、

1.疫病を祭祀によって終息させた話です。

 この治世に、疫病が大流行して人口の半分が失われました。そこで祭祀で疫病を治めようとした天皇が願うと、大物主神(オオモノヌシノカミ)などが現れました。神託に従って、それらの神々の神社に祭って祭祀を行うと、疫病は終息して五穀豊穣となった、という話です。

2.次に四道将軍です。

 四道将軍(しどうしょうぐん)とは、近畿周辺諸国を治めていた四人の将軍の記述です。北陸地方、山陰地方、東海地方、山陽地方を収めていた王族です。これは、崇神天皇の時期にそれらの地域を支配下に置いていた事を示唆すると、見なされています。

3.そしてこの時代に、初めて戸口を調査して課役を科したとされています。

 天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになった様子が窺えます。また、灌漑工事を行って、近畿地方の淡水湖を拓き、大いに農業の便を図ったとも伝えられています。

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九州との関係

 日本書紀には、九州や朝鮮半島と関係する記述はほとんどありません。わずかに百済からの朝貢があったことや、その朝貢品を新羅に奪われたこと、くらいです。邪馬台国九州説論者などが、「九州王国」が近畿地方を征服したという、いわゆる「ヤマト東遷説」を唱えていますが、その根拠は考古学上だけでなく文献史学上でも見出せません。

 どうやら、「騎馬民族征服説」で有名な江上波夫氏の説に枝葉がついて、崇神天皇のファンタジーが独り歩きしているようです。

  よくある事ですが、一人の著名な古代史研究家が自説を唱えると、それを事実として妄信してしまう連中が続出して、既成事実化してしまうのです。現に、江上氏に影響を受けた歴史作家たちが、これを基にして著書を出版しています。

 崇神天皇という九州や朝鮮とは無関係な人物が、いつの間にかその地方から出現した強力な豪族となり、やがて近畿地方を征服した事になっているのです。

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妄想

 では江上波夫氏の「騎馬民族征服説」の要旨に触れておきます。

 3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配します。この騎馬民族はやがて4世紀になって北九州に上陸しこの地を征服します。そして「九州王朝」が開かれます。その開祖となった者が、後に「崇神天皇」と呼ばれるようになったと言うものです。

 そして現在の天皇家の始祖はここにあるとしています。さらに「九州王朝」は、後の時代に「応神天皇」を戴いて近畿征服を果たした、というものです。

 そして、この北九州から近畿への遠征が「神武東征」として日本神話に反映していると言うのです。

 この「騎馬民族征服説」は、一般の歴史マニアにはその雄大な構想にロマンを感じて結構ファンが多く、現在でも僅かながら支持者はいるようです。

 私としては、よくもまあ、九州とは無縁の崇神天皇からこんなファンタジーを作り上げたものだと、あきれるばかりです。

 崇神天皇の御代をもってその記述がより具体性を持ち、実在と推測できる根拠が多いとされています。しかし崇神天皇がどういう民族で、はたして何処から来て、どうやって大和王朝の基礎を築いたのかについては、説明できた者はいません。すなわち文字の上での天皇でしかない、という事です。初代・神武天皇と同じように、考古学的な根拠は何一つ無いのです。

 また、騎馬民族征服説についても矛盾だらけですので、いずれ徹底的に洗い出すつもりです。