メルヘン大王 応神天皇

 現在では完全に否定されている万世一系ですが、では、実質的な初代天皇は誰でしょうか?

前回の動画では、崇神天皇に焦点を絞りました。日本書紀の上では、さまざまなご活躍をされていますが、考古学的な資料は一切ありません。文字の上だけの人物ですので、実在性は低いでしょう。

 今回は応神天皇です。この天皇は宇佐神宮・八幡神として神格化されている事から、邪馬台国九州説論者には大人気の天皇です。果たして応神天皇は天皇家の起源なのでしょうか?

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概要

 応神天皇は、日本書紀の上は第十五代天皇で、諱を誉田別尊(ほむだわけのみこと)といいます。実在したとすれば4世紀頃で、111歳で崩御されています。古事記では130歳での崩御です。このお方も、とても長生きでしたね。

 応神天皇が眠る陵墓は、大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)で、恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)として、宮内庁では指定しています。しかし大した根拠はなく、実際の被葬者は明らかになっていません。

 応神天皇が、「実在した可能性のある最初の天皇」とする説の根拠は、大きく二点あります。ひとつには、

日本書紀での出生地の記述が、九州である事。そして、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である宇佐神宮の祭神になっている事です。

 この二点から中国史書などを曲解して、応神天皇始祖論や、応神天皇による九州勢力の近畿征服などのファンタジーが創作されています。考古学的な根拠は全くありません。

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しょぼい天皇

 日本書紀に記されている応神天皇の実績は、ショボいものです。戦いの記述も、国を治めた記述もなく、近畿地方各地へ行幸した逸話が多いのが特徴です。この時代は近畿地方は既にヤマト王権によって支配されていたような雰囲気です。平和な時代の天皇だったのでしょう。近畿以外では、越前の角鹿笥飯宮(福井県敦賀市)への行幸の記載があります。これは母親の神功皇后が拠点としていた場所で、父親の仲哀天皇もこの地に都を移しています。

 九州との関わりが深いと思われがちな応神天皇ですが、北部九州での活躍の記載は全くありません。

 唯一、九州と関係があるのは、出生地です。福岡県宇美町とされています。

 このたった一つに記述をもって、応神天皇は九州王国の英雄に祭り上げられているのです。

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越前との関係

 応神天皇が九州で生まれた経緯は、日本書紀によれば次の通りです。

母親の神功皇后が熊襲征伐の為に、北陸・越前の敦賀から九州へやって来ました。九州では、山門の女酋長などの筑紫平野の抵抗勢力を征伐しました。そしてさらに朝鮮半島へと向かおうとしていました。ところがその頃には、神功皇后のお腹には仲哀天皇との赤ちゃんがいました。

 それでも彼女は、身重のまま対馬海峡を渡り、新羅、百済、高句麗を征伐しました。これが三韓征伐と言われる神話です。

 再び九州へ戻った神功皇后は、福岡県宇美町あたりで出産しました。この赤ちゃんが応神天皇です。

このように、応神天皇自身は何の活躍もしていないのです。九州との関わりは「生まれただけ」という事です。

 日本書紀という神話だらけの書物を、仮に信用するならば、神功皇后や応神天皇に関わりの深い場所は、北部九州などではなく、北陸・越前の敦賀とするのが自然でしょう。

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後付け伝承

 応神天皇は、神功皇后と共に宇佐神宮の祭神として祭られています。

これは、先ほどの神功皇后の神話の中で、応神天皇を出産した後で、宇佐神宮へ詣でたという記載があるからです。

そもそも宇佐神宮は六世紀の創建で、主祭神は比売大神という女性の神様でした。これに応神天皇と神功皇后を付け加えたというのが実際のところです。平安時代頃に、日本書紀の記述からこれ幸いと、曲解しただけの話です。日本全国各地の神社に必ずある、「後付け伝承」ですね。

 宇佐神宮は、奈良時代の藤原氏一族の勃興期と同じ時代に最盛期を迎えています。それは、伊勢神宮をも上回るものでした。日本書紀の編纂と、宇佐神宮の勢力、ともに藤原氏一族の影がちらつきます。

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九州とは無関係

 このように、九州とはほとんど無関係な応神天皇なのですが、王朝交代の主人公として祭り上げる輩が、少なからず存在します。

 これは、前回の崇神天皇による「騎馬民族征服説」というファンタジーを描いた江上波夫氏の功績でしょう。

崇神天皇が朝鮮半島から渡って来た騎馬民族で九州王国を建国し、その末裔である応神天皇が近畿地方を征服した、というお話です。

 あまりにも荒唐無稽ですが、この説にロマンを感じた歴史作家によって様々なメルヘンが描かれました。そして、いつの間にか応神天皇は九州王国の大王で、近畿地方を征服した立役者だというお話になってしまったようです。

「嘘も百回言えば、本当になる」という事です。

  応神天皇の王朝交代説については、文献史学だけでなく、考古学的な根拠も一切ありません。歴史作家によるメルヘンだけです。このメルヘンに乗っかって邪馬台国東遷説を唱える輩も、少なからず存在します。

あまりにも、非科学的、非論理的であると言わざるを得ません。

 どうしても六世紀頃までの天皇については、八世紀の書物を曲解するしかないので、ファンタジーに溢れた仮説になってしまうのでしょう。