前回は、2004年に熊本県宇土市の主催で行われた「大王のひつぎ実験航海事業」の、復元作業を中心に紹介しました。今回は、阿蘇ピンク石を熊本から大阪まで運んだ海上ルートを中心に、地域イベントとして成功を収めた様子を紹介します。
また、この実証実験の成功は、六世紀の継体天皇の時代に造船技術や航海技術の進歩、瀬戸内海航路の開拓、という物理的な事象の証明だけではありませんでした。
それは、大和朝廷の中央集権国家体制が、この時期に盤石になったことの証明でもあったのです。
このプロジェクトは、まず出来上がった石棺を、港まで運ぶ作業から始まりました。
計画的に作製された修羅の上に石棺を載せて、人力だけで引っ張りました。
このポスターのように、地域のイベントとして大々的に行われ、宇土市だけでなく周辺の地域からも参加者が集まり、大勢の人々が力を合わせて修羅曳きを体験しました。
石棺の修羅曳きが行われたのは、古墳時代以来,実に1500年ぶり。一生に一度の貴重な体験ですので、忘れがたい思い出になったことでしょう。
参加した人たちは,古代人の並々ならぬエネルギーに驚嘆し、修羅を曳いたときの重量感や動いた時の手の感触などを笑顔で語り合っていました。
宇土の港まで運ばれた石棺は、台船に乗せられて、いよいよ出港です。
熊本から大阪までのルートは、予め綿密に計画されました。約1000キロの航路ですが、寄港地は22か所。荒天に備えるための「予備日」を除く実質的な航海日は23日間でした。
ルートの詳細は次の通りです。
まず、熊本県宇土市の宇土マリーナを出港します。その後、順に、
口之津港(くちのつこう)、野母漁港、三重港、大島・馬込港、釜田港、名護屋港、志賀島港、大島港、門司港、三田尻中関港、下松港、佐賀漁港、森野漁港、三津浜港、大井浜来島、宮窪・水軍浜、鞆の浦(とものうら)港、玉島港、牛窓港、室津港、別府港、芦屋港、大阪南港、となります。
潮流速度が速く、弥生時代では不可能だった世界有数の困難な海域、関門海峡、大畠瀬戸、来島海峡、明石海峡、なども通過する計画でした。
丸木舟に乗せた7トンにもなる石棺を、古代船「海王」で引っ張っていく計画です。漕ぎ手には、各地の大学生や、地元の学生さん達が協力して行われました。もちろん普通の学生ではなく、カッター部員などの船を漕ぐ訓練をしている若者たちです。
1990年に大阪市が主催した「なみはや号」の実証実験でも、もちろん漕ぎ手のプロとも言える若者たちを揃えたにも関わらず、全く進まなかった事を考えれば、一般の若者では最初から無理でしょう。
古代船の方は、用意周到に準備されたものでしたので、海に浮かべてみると予想通り安定性が良く、漕げば軽快に進む船となっていました。
この時点で、ほぼ計画は成功したようなものです。備えあれば憂いなし。
また、航路では、停泊地の漁民の人達との連携や、港の歴史を訪ねるなどの、夢を共有する市民参加の事業だったようです。
ただし結果的に成功だったとはいえ、航海途中にはさまざまなトラブルがありました。また、困難な海域や気象条件が悪い場合は、海上保安庁の船に曳航されました。その様子は、次回の動画にて紹介する事にします。
この航海実験を終えて、見えてきたものがありました。それは、単に継体天皇の時代に、ようやく瀬戸内海を渡って行ける造船技術や航海技術が向上した、という事だけではありません。
九州から瀬戸内海地域を、ヤマト王権がようやく掌握したという事、つまり大和朝廷の中央集権体制が強固になったという事です。
この航海実験では、寄港した港港で歓迎を受けると同時に、畏敬の念をもって迎えられたということです。
1500年前にも同じように、ヤマト王権が畏れ多い存在と認識されたのは確実でしょう。それまで大型船では航海出来なかった海域を、重い石を引っ張りながらやって来たヤマト王権の軍人たち。文明の遅れていたこの地域の人々にとっては、江戸時代末期の「黒船」が現れた時のような衝撃に襲われたことでしょう。「こりゃかなわんわ~」と。
実際にこの時代に「屯倉」と呼ばれる、ヤマト王権が支配する直轄地が瀬戸内海地域に、一気に増えて行った事からも分かります。
継体天皇という高志の国(北陸地方)に基盤を持ち出雲(山陰地方)や尾張(東海地方)を従えた勢力が、近畿地方を征服し、さらに磐井の乱で九州を掌握すると同時に瀬戸内地域をも支配下に置きました。
この阿蘇ピンク石の海上輸送は、単に「石を運んだ」という事実以上に、中央集権国家の成立の過程という重大なポイントを、浮き彫りにしてくれました。
さて、このプロジェクトは成功したと思えますが、その過程は苦難の連続だったようです。
次回は、このプロジェクトの様々な問題点と解決策を紹介します。