古代船の実証実験は、これまでに何度も行われていますが、ほとんどが失敗しています。その中で唯一、成功した事例があります。2004年に熊本県宇土市主催の「大王のひつぎ実験航海事業」です。大阪府高槻市の今城塚古墳から発見された阿蘇ピンク石の棺は宇土市産であり、これを実際に古代船で運ぶ実験をしたのです。手漕ぎの船で約30日を掛けて大阪港に到着し、成功を収めました。(実際には、半分成功)
今回はまず、阿蘇ピンク石とは何か、という点から入ります。
この地図は、雲仙普賢岳を中心とする熊本県と長崎県の地図です。
近畿地方を中心とする古墳の棺に用いられていた「阿蘇ピンク石」は、このエリアから産出される石です。具体的には、熊本県宇土市馬門付近です。ここで産出される凝灰岩がピンク色をしているのでそう呼ばれるそうです。あるいは、産出地の名前から、馬門石(まかどいし)とも呼ばれています。
この石は、約9万年前の阿蘇山の噴火により流れ出た火砕流が堆積し,数年から十数年をかけて冷えて固まったものです。用途としては、古墳時代に近畿地方の有力豪族の棺として用いられた事と、江戸時代に宇土市の上水道の整備に用いられた事があります。しかしそのほかの用途はなく、昭和30年代にはほとんど切り出しは行われなくなり、現在は雑木林に覆われ、苔むした石の破片が崖を覆っています。 近年になって、この石の歴史の謎を解くため発掘調査に着手し、その地からは古墳時代の石の切り出しを根拠づける土器が出土しています。
では、阿蘇ピンク石が棺として使われていた古墳をあげます。
大阪府高槻市・今城塚古墳
大阪府藤井寺市・長持山古墳
大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳
奈良市・野神古墳
奈良県天理市・鑵子塚(かんすづか)古墳
奈良県天理市・東乗鞍古墳
奈良県桜井市・兜塚古墳
奈良県桜井市・慶雲寺
奈良県桜井市・金屋ミロク谷
奈良県橿原市・植山古墳
滋賀県野洲市・円山(まるやま)古墳
滋賀県野洲市・甲山(かぶとやま)古墳
岡山県瀬戸内市・築山古墳
岡山県岡山市・造山(つくりやま)古墳
このように、近畿地方と吉備の国・岡山県で使われおり、時代は6世紀~7世紀の古墳時代です。
とくに有名なのは、六世紀の継体天皇の墓とされる今城塚古墳と、七世紀の推古天皇の陵墓とされる植山古墳です。
存在の確実な天皇の墓、およびその孫で、初めての女性天皇の墓です。
不思議なのは、近畿地方の多くで使われた九州の石にも関わらず、九州の古墳では全く使われていない事です。
ではなぜ使われなかったのでしょうか?
私は、このピンク石が弥生時代の翡翠製勾玉や碧玉製管玉のような、「威信財」だったからだと思います。強力な豪族しか持てない、あるいは持ってはならない石だったのではないでしょうか。
古来より北部九州は、朝鮮半島や中国大陸との交易で、多くの貴重な出土品はありますが、決して超大国が存在していた場所ではありません。それは、農業生産力が貧弱だったからです。古墳時代という大和王権が九州地方を完全に掌握した後では、九州の独自性は失われました。近畿地方の勢力下に完全に飲み込まれ、地元でとれるピンク石さえも、自由に使う事が出来なくなっていたのだと思います。
大阪府高槻市の今城塚古墳の被葬者が、古代史最大の戦いの磐井の乱を鎮圧した人物である事からも推測されます。越前の大王・継体天皇です。この乱を鎮めたことにより、日本列島が完全に大和王権の支配下に入り、中央集権国家体制が強力になったのでしょう。
実際に熊本県宇土市から大阪港までのルートを推測すると、瀬戸内海航路が最も有力です。
当然と思われるかも知れませんが、瀬戸内海は潮流速度や潮流変化が激しく、日本で最も航海の難しい海です。九州から近畿へ長距離移動するには、通常は日本海航路が使われていたからです。
瀬戸内海は、造船技術や航海術が向上したずっと後の時代になってからようやく拓かれた航路です。従って、古代の瀬戸内海地域は、必然的に最新の文明から取り残され、日本で最も遅れた地域になっていたのです。
この航路が使われた始めたのが6世紀頃だという推定は、この阿蘇ピンク石が発見された地域の分布からも分かります。その頃には、吉備の国を中心とする勢力だけでなく、屯倉と呼ばれる古代の地方行政府も瀬戸内海地域に置かれるようになりました。
なお、吉備の国・岡山県には弥生時代からの遺跡が豊富ですが、それは日本海側の山陰地方から陸路で伝わったものです。出土した土器類は、出雲系のものを進化させたものだからです。瀬戸内海を使った九州文化の影響が無いという事は、弥生時代には、まだ航路が拓かれていなかったという事です。
これらは、以前の動画でも考察していますのでご参照下さい。
阿蘇ピンク石が瀬戸内海航路を使って運ばれた事は、古代史上の一つの革命でした。
それ以前の九州と近畿を結ぶ航路は、対馬海流の流れる日本海でしたので、新しい時代の幕開けと言える事件でした。
近畿地方のヤマト王権の支配力が、九州や瀬戸内地域にまで確実に及びましたので、中央集権国家体制のインフラ整備がなされたとも言えます。さらにその後の時代の、白村江の戦や、遣隋使や遣唐使という朝鮮半島への航路が、当たり前に瀬戸内海ルートとなった布石でした。
次回は、阿蘇ピンク石の運搬実証実験である「大王のひつぎ実験航海事業」の詳細です。