こんにちは、八俣遠呂智です。
日本列島で初めて出現した巨大国家・邪馬台国。この研究をする上で最初に考えなければならないのが時代背景、すなわち「弥生時代」です。基本的に稲作が始まった時期から、とされていますが様々な解釈があり、水田稲作が伝来した紀元前9世紀からであるとする説から、日本列島全域に広がった紀元前3世紀からであるとする説まで、様々です。
今回は、弥生時代をいつからと見なすか? という視点で考察を行います。
日本の歴史は、小学校の歴史の授業で習う通り、縄文時代から江戸時代まで大雑把に括られています。
もちろん、それぞれの時代のその当時の一般民衆が自覚していた訳ではなく、現代人が理解しやすいように時代分けしているだけです。要は、日本列島に大きな変化が起こり、新しい状況が一定期間継続した事を根拠に、一つの時代として括られている、という程度のものです。
奈良時代から江戸時代までは、政治の中心地が移った時期、古墳時代は巨大古墳の造成が始まった時期、縄文時代は縄文土器が使われ始めた時期、といった具合です。
では、弥生時代はどうでしょうか?
一般には、水田稲作が始まった時期とされています。しかしそれを日本列島に伝来した時期とするか、日本列島で広まった拡散時期とするか、明確な定義はなく、その差は600年もの開きがあります。私は、伝来した時期ではなく、日本列島に広まった時期と考えています。
稲作文化が日本列島に広がったというのは、伝来した事以上に大革命ですよね? 食生活が変化したという単純な理由だけではありません。日本列島という平地が極端に少ない場所において、人口扶養力の高い大きな人口を賄える優秀な作物栽培が始まったというのは、それ以前とは比べ物にならない程のインパクトがあります。水田稲作の広がりによって、人口爆発が引き起こされ、ムラと呼ばれる小規模の集合体が数多く形成され、そしてクニと呼ばれる更に大きな集合体へと繋がった訳ですから。
そして邪馬台国という、日本列島で初めて誕生した巨大国家が出現したのも、水田稲作文化が広がったからこそですよね?
まず、現在までに見つかっている最古級の水田稲作遺跡を挙げて行きます。地域的には北部九州に集中しています。
最も古いのは、佐賀県唐津市の菜畑遺跡です。
見つかった米を、放射性炭素14年代測定器という科学的な手法で検査したところ、紀元前9世紀のものである事が分かり、大ニュースになったのは有名ですね? この科学分析までは、紀元前5世紀が水稲の伝来とされていましたので、実に400年も時代が遡った事になります。
この遺跡からは、水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)といった水田遺構が発見されていますので、稲が確実に栽培されていた事も裏付けられています。
菜畑遺跡の発見以前には、板付遺跡が最も古いとされていました。この遺跡は福岡市博多区で見つかったもので、紀元前5世紀頃と推測されています。この遺跡からは、環濠集落も確認されています。環濠集落は、周囲に堀をめぐらせた(ムラ)のことで、狩猟・採取の食料調達だった縄文時代から定住型の弥生時代へと生活形態が変化して行った痕跡を示した遺跡と言えます。
これら2つが弥生時代の始まりを語る上で、必ず引き合いに出される遺跡です。特に菜畑遺跡の紀元前9世紀というのは衝撃的で、現在では多くの古代史研究家たちが、弥生時代の始まりはこの時期であると主張しています。
但し、私は先ほども申しました通り、日本列島で広まった時期こそが弥生時代の始まりと考えていますので、菜畑遺跡を以って弥生時代が始まったとは考えていません。
では、日本列島全域で水田稲作が始まったのは、いつ頃でしょうか?
それを定義するには最初に、水田稲作の日本列島での進化を見なければなりません。北部九州に伝来したからと言って、日本全国に単純に広がって行ったわけではないのです。つまり菜畑遺跡や板付遺跡のような、小規模で局地的な水田では、一つの食物生産でしかなく、縄文時代から続いた食生活が劇的に変化した訳ではありません。水田稲作がいかに優れたものであるかを理解されず、最初は見向きもされなかったのでしょう。魅力の無いものが普及しないのは、現代も古代も同じですね?
ところがある時期を境にして、一気に広がっているのです。その重要なポイントは、土器の進化と水田適地にあります。
まず土器については、米の炊飯や貯蔵に適したものが紀元前3世紀頃に発明されました。弥生土器の始まりとも言える遠賀川式土器です。それ以前には縄文土器という奇抜な形状が印象的な土器がありましたが、焼成温度が低いなどの理由から非常に脆く、米を煮炊きするには適していませんでした。せっかく米を生産しても、ご飯として毎日食べる為の道具にはならなかったのです。遠賀川式土器の出現によってようやく、米をご飯として食する文化が始まったのでした。
縄文土器から遠賀川式土器へは、もちろん一夜にして進化した訳ではありません。その中間的な存在として、縄文末期の刻目突帯文土器(きざみめとったいもんどき)があります。縄文土器よりもデザインがややシンプルになったと同時に、耐久性も向上しています。この土器は、菜畑遺跡や板付遺跡の時代と同じ紀元前10世紀~紀元前5世紀のものです。すなわち水田稲作の初期段階という事になります。そしてさらに進化して遠賀川式土器へと繋がりました。
遠賀川式土器はその名の通り、福岡県にある遠賀川流域で見つかった事による名称です。遠賀川は直方市を中心とする直方平野を流れていますが、まさにこの地こそが水田稲作が広がったもう一つのポイント、水田適地なのです。
水田適地は、もちろん直方平野に限らず菜畑遺跡や板付遺跡にも言える事です。しかしこれらの間には、決定的な相違点があります。それは、直方平野が大規模で広域的な水田適地であるのに対して、菜畑遺跡や板付遺跡は小規模で局地的な水田適地という事す。唐津市や福岡市はそもそも扇状地形で水田には不向きな場所です。それにも関わらず日本列島で最も古くから水田稲作が始まったのは、三日月湖跡地や谷底低地のような局地的な水田適地が存在していたからです。決して唐津市や福岡市全域で大規模に稲作農業が始まっていた訳ではないのです。
一方で直方平野の方は、平地全体が水田稲作に適した土地です。かつて平野全体が湖に覆われていた場所ですので、長い年月を掛けて山々からの堆積物が積み上がり、沖積層が形成されました。そして、湖の水が引いた後は平坦で水はけの悪い沖積平野、すなわち水田稲作を行うには最高と土地となったのです。しかもとても広い面積でした。
紀元前9世紀に菜畑遺跡あたりで細々と始まった水田稲作は、紀元前3世紀頃に直方平野という広大な水田適地において大規模に行われるようになったのです。そして、遠賀川式土器というまさにお米を食べる事に特化した土器が開発されたのもこの時期です。
これらを年表に纏めると、次のようになります。
水田稲作は、紀元前9世紀頃に菜畑遺跡に伝来しました。紀元前5世紀頃には、板付遺跡にて環濠集落という弥生時代ならではの「ムラ」という集合体が発生しました。しかしこの時期までは、たくさんあった作物の中の一つとして細々と稲作も行われていたに過ぎません。紀元前3世紀頃になると、直方平野という水田稲作に最高の土地が見つかり、大規模に行われるようになりました。
土器の視点からも、菜畑遺跡では縄文土器だったものが、板付遺跡では刻目突帯文土器へと改善が加えられ、直方平野に入ると遠賀川式土器という弥生時代初期の典型土器へと進化しました。
そして、紀元前3世紀頃から一気に日本列島全域に水田稲作が伝播して行きました。
現代の商品開発の視点で例えると、次のようになります。
水田稲作が伝来した菜畑遺跡は、研究所において画期的な最新鋭の技術が発明された時期。板付遺跡は、その発明された技術を実用化する為に試行錯誤していた設計・開発期間。さらに直方平野は、実用化された技術を一般に広く使ってもらう為に大量生産を行い始めた時期。と言えるのではないでしょうか?
そして直方平野で確立された日本型の水田稲作文化が、遠賀川式土器と共に一気に日本列島各地に広がって行ったのです。
そう考えれば、弥生時代の始まりは決して紀元前9世紀とは言えないでしょう。稲作が伝来しただけでは、日本列島に何の革命も起こっていません。直方平野で大量生産が行われるようになって初めて、列島各地で水田稲作を行いたい、という需要が生まれ、実際に瞬く間に全国へ稲作文化が広がったのです。
私は、弥生時代の始まりは紀元前9世紀ではなく、直方平野で水田稲作文化が確立された紀元前3世紀からであると考えます。
いかがでしたか?
弥生時代の始まりを紀元前9世紀とすれば、ほかの時代区分もおかしくなりますよね? 例えば奈良時代です。平城京へ遷都した年代を始まりとしていますが、計画が開始された時期にしなければならなくなってしまいます。少なくとも10年前には、この地に新しい都を造る計画があり、それに基づいて土木工事が行なわれたのですから。
水田稲作が始まっただけの菜畑遺跡からが弥生時代とすれば、奈良時代も710年からではなく計画が始まった700年より前にしないと、辻褄が合わないですよね?