Q: 魏志倭人伝は信用できるのか?
A: 信憑性は高くありません。なにせ1800年前の書物ですから。
魏志倭人伝の信憑性を考察しました。信憑性に多くの疑問があります。「魏志倭人伝が不正確な理由」に具体的な内容を記しましたので、ご参照下さい。
ただ、信頼できずとも、”火の無いところに煙は立たず”。とりあえず、魏志倭人伝を基に、邪馬台国(越前)への行路をたどってみました。すると驚く事に、畿内説よりも越前説の方が、遥かに整合性が取れていることが分かりました。
下の図のように、不弥国(福岡県糟屋郡宇美町)に至るまでは、どの説も一致しており、確実でしょう。その先の投馬国に至る行程で、いろいろな説が出ています。
南至投馬國水行二十日
「不弥国から南へ行って投馬国にいたる。水行二十日かかる」
説1: 不弥国から南へ海路で二十日とは、九州の南端の鹿児島県近辺。さらに、
「投馬国から南へ行って邪馬台国にいたる。水行十日、陸行一月かかる」
鹿児島から南へ海路で十日ならば、奄美大島。陸路一月ならば? ・・・不可能です。
ここは、近畿説と同じように「東」を「南」に書き間違えた、あるいは、日本列島の本州が九州から南に伸びていると誤認されていた、と解釈するのが妥当でしょう。
都合のいい解釈かもしれませんが、 魏志倭人伝が不正確な理由 を考察していますのでご参照下さい。
では、不弥国から東へ海路で二十日かけるとどこに着くでしょうか?
航路としては、瀬戸内海ルート(説2)、日本海ルート(説3)、が考えられます。比較すると、
・当時の九州北部や朝鮮半島は、出土品から出雲など日本海側との交易があり、船が行き来していた。
・それに比べて同時代の瀬戸内海側には、朝鮮半島からと思われる文物があまり見あたらない。
・日本海ルートは、東へ流れる対馬海流と、東へ押し出す西風が吹きやすく、航海し易い。
・瀬戸内海ルートは、潮流の変化、風向きの変化が激しく、稚拙な航海術で東に向かうのは困難。
従って、日本海ルート(説3)で東に向かったと見るのが妥当でしょう。
いわば、当時の倭国の表玄関は日本海側であったということです。
日本海側で最強勢力だった邪馬台国(越前)は、九州北部まで支配範囲を広げていた、そして、九州からの租庸調を、対馬海流と西風に乗って運搬していたと見るのが自然です。
ちなみに、瀬戸内海ルートが確立されるのは、遣隋使を送り始める7世紀に入ってからです。
投馬国はどこか?
対馬海流と西風に乗って、不弥国から日本海を東へ二十日行けば、但馬(兵庫県豊岡市)あたりまでたどり着きます。言うまでもなく、魏志倭人伝は、聞こえた発音を適当な漢字に当てはめていますから、投馬国は但馬で間違いないでしょう。
なお当時の但馬は、丹波の国の一部でした。但馬(たじま)にしても、丹波(たんば)にしても、投馬国と表現されたのは自然でしょう。
魏志倭人伝には投馬国は、五万戸もの大都市だったと記されています。これは、邪馬台国に次ぐ巨大都市です。
但馬の地質は、やはり水田稲作に適した土地です。越前と同じように、淡水湖から沖積平野となった豊岡盆地や福知山盆地があります。弥生時代末期の大都市としては十分な条件を備えており、投馬国=但馬(丹波)であることは間違いありません。
投馬国から邪馬台国へ
さて、いよいよ投馬国から邪馬台国への行路です。
魏志倭人伝では、この部分だけ二種類の行程(水行・陸行)が記されています。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月
「投馬国から南へ行って邪馬台国、女王の都にいたる。水行十日、陸行一月かかる」
なぜか?
これもまた、対馬海流と西風が要因です。
上図のように、投馬国から東へ向かうと、若狭湾があります。対岸(越前)までは、釜山ー対馬、壱岐ー九州、よりも距離があります。当時の航海技術で、ここを一気に渡っていくには危険が伴います。しかし、対馬海流と西風を利用すれば容易です。ところが逆方向の、東から西へ向かうには、若狭湾の港を幾つも渡り歩かねばなりません。また、滅多に吹かない東風を待つことも必要です。とすれば、陸を歩いて行く方が理にかなっています。当時の陸路は、まだ街道が整備されていない「けものみち」程度でしたので、越前と但馬までの陸路は一ヶ月は掛かったことでしょう。
海行・陸行の併記は理にかなっている