魏志倭人伝の記述に従って、邪馬台国までの行路を辿っています。前回までは、奴国を博多湾地域であるとの基準を設けて、そこに生じた方角のズレを全てに当てはめました。すると、考古学的な根拠とも合致する適切な場所が邪馬台国となりました。
今回からは、魏志倭人伝の記述通りの方角で進んでみます。すると、とんでもない場所に
行きついてしまいました。九州の上陸地点には2ヶ所の可能性がありますが、まずは伊万里とした場合の検証です。
これまで、魏志倭人伝の邪馬台国までの行路を辿ってきました。
朝鮮半島の帯方郡を出発して、半島南部の狗邪韓國、対馬海峡を渡って対海国、一大国、九州島に上陸して末蘆国、伊都国、奴国、不弥国、日本海を沖乗り航法で投馬国、さらに日本海を沖乗り航法で邪馬台国へ至りました。
奴国を博多湾沿岸地域だという前提に従えば、多少の方角の修正はあるものの、とても適格な地域が魏志倭人伝の記述と一致しました。
では、方角を修正しない場合はどうなるのでしょうか?
今回は、魏志倭人伝に記された方角を修正せずに、正確に順を追って検証してみます。
まずは九州島の上陸地点です。
一大国(壱岐)から末蘆国まで1000里ほどの距離ですが、方向が記されていないので二つの場所が候補に挙がります。
佐賀県伊万里市と福岡県宗像市です。
今回はこの内、佐賀県伊万里市の場合を考えてみます。
ここは、前回までの考察で奴国を博多湾地域とした場合も、末蘆国と比定した場所です。江戸時代までは松浦郡と呼ばれていましたので、音韻上の類似点があります。
また、海産物の収穫を生業にしていたとの記述がある小国ですので、この地域の風土との整合性もとれます。
魏志倭人伝は、末蘆国からこの先、方角が記されていますので、正確に辿って行きます。
末蘆国の次は、東南方向へ500里で伊都国となります。
この場合、有明海に抜け出る事になりますので、大体このあたりです。行路としては、山岳地帯となりますので、魏志倭人伝に記された「草木茂盛行不見前人」「草木茂盛し、行くに前人を見ず。」という表現に一致します。
到着した伊都国は、女王国の玄関口であり、入国管理局のような場所ですので、豊富な弥生遺跡が発見されていて然るべき場所です。
ここに示しました伊都国の有明海エリアには、少し距離はありますが吉野ヶ里遺跡があります。大規模拠点集落跡があったという考古学的な見地からも、可能性のある場所です。
伊都国の次は、東南方向へ100里で奴国となります。
これは、伊都国が吉野ヶ里を含む広域エリアだったとすれば、奴国は、八女・山門エリアとなります。
魏志倭人伝には、二万戸もの超大国となっていますが、この地域の弥生時代は、ほとんどが海の底か湿地帯でした。可能性としては、筑後川を遡った久留米あたりも含んで一つの国家だったとすれば、この地が奴国だった可能性があります。
なお、卑弥呼がモデルとされる神功皇后が熊襲征伐した敵対勢力は、この山門地域であり、土蜘蛛・田油津媛(たぶらつひめ)で有名です。弥生時代に何らかの勢力があった事を匂わせます。また、八女は、六世紀に反乱を起こした磐井勢力の拠点ですので、やはり強力な勢力があった事は間違いないでしょう。
ここまでは、魏志倭人伝の方角を正確に辿れば、ある程度の可能性はあります。
奴国の次は、東方向へ100里で不弥国になります。
これはどう考えても、山の中に入ってしまいます。
魏志倭人伝の方向を正確に辿っていますので曲解はしたくないのですが、少しおまけをして南東方向だとすれば、阿蘇カルデラや、菊池盆地あたりとなります。
この地域は、阿蘇黄土と呼ばれる二酸化鉄の産地ですので、弥生時代の鉄器出土数では九州の中で最も多く見つかっています。また菊池盆地は、淡水湖が干上がった天然の広大な水田適地です。これらの事から、この地域にも強力な勢力があったと思われます。
しかし、次の行程で決定的な矛盾が生じてしまいます。
それは、不弥国から南へ水行20日という記述です。山の中では、海を20日間も移動するというわけにはいかないですよね。
という事で、この時点で、魏志倭人伝の方角を正確に辿るのは不可能になりました。
なお、この行路を、朝鮮半島の帯方郡からの行路だとする虫のいい曲解がありますが、何の根拠もありませんので、ここでは無視します。
B: ちょっと、待って?
A: なっ、なに?
B: 水行20日って、海の移動に限らないんじゃない?
川を下ってもいいでしょう?
A: ううん。可能性は低いけど、一度、考えてみましょうか?
B: うん、うん。
A: じゃあ、不弥国の菊池盆地から川を下って、有明海に出るわね? そして東シナ海に抜けて、南方向へ航海して行きます。
この海域は、黒潮がぶつかってくるけど、南方向へ向かう海流がありません。すると、港を点々とする地乗り航法になってしまいますね?
B: うん、うん、確かに。これじゃ沖乗り航法はできませんね?
A: という事は、不弥国から投馬国までの水行20日の間に、少なくとも20ヶ所の港に立ち寄る事になります。それならば、そういう国々の記載が、魏志倭人伝にはあって然るべきですよね。ところが、それがないですよね?
B: なるほどぉ? これじゃ、無理ですね?
A: そうですね? でも、百歩譲って、地乗り航法で航海した場合、鹿児島県あたりに到着しますので、ここが投馬国と見なしましょう。一応、その先の邪馬台国まで行ってみますね?
B: そうして、そうして?
では投馬国を鹿児島県として、そこから南へ水行10日、陸行1月で邪馬台国となります。
これまた無理ですね。
南方向は、世界で最も潮流速度の速い黒潮が流れています。しかも逆方向です。
帆船もなかった弥生時代の造船技術・航海技術で、この海を10日間も移動するなどもってのほかです。
仮にこれが可能だったとしましょう。その場合、奄美諸島や沖縄諸島に到着しますが、その場合でも「陸行一月」という記述に合致する陸地は、どこにもありません。
もはや、この行路を追究する必要はないでしょう。
魏志倭人伝の方角を、いくら正確に辿ったところで、矛盾だらけで邪馬台国には到着できないという事です。
これまでの矛盾を列挙すれば、
・不弥国が山岳地帯となってしまう。
・沖乗り航法が使えないので、「水行」という行程に合わない
・黒潮に逆行する
・「陸行一月」に合致する陸地がない
となります。
魏志倭人伝の記述されている方角にいくら正確でも、到着する邪馬台国の場所がとんでもない場所では話になりません。また、博多湾沿岸地域や糸島半島という、弥生遺跡の宝庫を通らないルートになってしまいますので、考古学的に優れた場所を無視する事になってしまいます。
方角に正確なルートは、今回の伊万里を上陸地点にするケースだけでなく、宗像を上陸地点にするケースも考えられます。次回はそのルートで邪馬台国を目指します。