三国志は、陳寿が書いた事になっています。そして、倭人伝も追従的に陳寿が書いた事になります。それはそれで正しいとしましょう。
しかし、陳寿一人で書いたのでしょか?
小説や芸術作品を作り上げた人ならば、個人の功績として歴史に名前が残ります。しかし三国志は、晋の時代に国の威信をかけて書き上げられた歴史書です。
陳寿は晋の高級官僚でした。歴史に名を残した官僚は、常に組織のトップです。陳寿一人が全て調査し、書き上げたわけではないでしょう。
国史を編纂するという国家の重要プロジェクトですので、組織を編成して資料収集し、最終的な編集責任者が陳寿だったと考えるのが自然でしょう。
もちろん、三国志のありとあらゆる資料を、陳寿の頭の中で整理して書き上げた可能性もありますが、そういう書物を国家として尊重し、国史とするでしょうか?
国史の編纂は、古代国家において最重要プロジェクトですので、組織立って作り上げたのです。
陳寿の下に、魏志作成の担当役人、呉志作成の担当役人、蜀志作成の担当役人を配置します。魏の担当役人は、魏の時代の書類の収集と史書作成に当たります。現存しませんが、魏書という魏の時代の歴史書などの収集に当たったと思われます。同じように、呉の担当役人は、呉書などの歴史書の収集と史書作成。蜀の担当役人は、蜀書などの歴史書の収集と史書作成を行いました。
もちろん、それぞれの歴史書は膨大なので、担当役人一人で行ったとは思えません。彼らの下に複数の役人がついて、資料収集と史書作成に当たったことでしょう。
魏志作成部署の中の役人で、東夷伝担当者が一人、または複数人おり、彼らが東夷伝の資料収集と倭人伝の作成に当たったのです。
ここで、図中に「小役人」と書きましたが、中国の役人は超優秀です。科挙制度が始まる前の時代ですが、古代中国の事ですから、超エリートのみが役人になれたと思います。
とすれば、小役人たちが作成する史書は、その当時の常識に沿った形になったはずです。
例えば倭国について。
北部九州とは、古くから繋がりがあるので、地名や距離、行路は、知識のあらん限りを尽くして書いたでしょう。それが魏書に書かれていたかどうかに関わらず、です。小役人が上司を忖度して、詳しく書いたはずです。
また、海行で「東へ20日」と書いてあっても、「南へ20日」と書き換えたはずです。なぜなら、超優秀な役人であれば、倭国の形を知らない者はいないからです。当時の常識は、「九州が北の端、本州は南へ伸びている」でしたから。これが正解であり、超エリートが、これと異なる解釈をすれば、「能力無し」と査定されてしまうからです。
これらのように、三国志および魏志倭人伝は、陳寿のもとに上がるまでに、多くの忖度がなされ改竄された可能性があります。
今回の内容は、陳寿による三国志編纂の状況を、現代の官僚制度の仕組みや忖度と重ね合わせて、想像したものです。ただ、現代も古代も、官僚や小役人のやることに、大きな差は無いのではないでしょうか?