900年前の中国の南宋時代の紹興本や紹煕本によって、三国志の形は整えられました。その後は、活版印刷技術なので、記述に変動はない。
・・・・・・と思いきや!
魏志倭人伝の信憑性の履歴を復習します。三世紀末に陳寿によって三国志が書かれました。その後、900年の歳月で写本を繰り返しながら、中国正史として受け継がれました。十二世紀に『紹興本』や『紹煕本』となり、活版印刷でさらに900年後の現代にまで伝わりました。
ところが、300年前、江戸時代の学者・新井白石が、ちゃっかり曲解・改竄してくれていました。ご本人が生きておられたら、「曲解」ではなく「解釈」である、と激怒されるでしょう。
現代の邪馬台国論争にも通じる曲解手法を、彼は示してくれたようなものです。
新井白石は、17世紀から18世紀の江戸時代の、旗本・政治家・朱子学者です。魏志倭人伝については、日本で初めて本格的に論じた人とされています。
研究としては、原版である12世紀の南宋時代の『紹興本』や『紹煕本』を日本語に解釈・翻訳しています。この解釈・翻訳が、現代で研究されている魏志倭人伝の元になりました。
新井白石は、中国の多くの言語に通じた人物と共に翻訳しました。その中で、
邪馬壹国 → 邪馬臺国 と曲解し(やまと国)としました。
一大国 → 一支国 と曲解し(壱岐)としました。
對海国 → 對馬国 と曲解し(対馬)としました。
もちろん、理由があってそうしたのですが、原本のまま日本語化したわけではありません。
特に、邪馬壹国から邪馬臺国については、主役の名前だけに、現代でも火種が残っています。
そもそも、『紹興本』や『紹煕本』には、邪馬壱国と書いてあり、邪馬台国とは書いてありません。 理由としては、
・三国志を引用した歴史書には、邪馬台国と書かれている事
・天皇家に対する忖度があった事
などがあります。理由はどうあれ、新井白石の主観が大きく反映されています。彼が通訳の発音に基づき音読したことから(やまたいこく)の読み方が広まりました。つまり、日本人むけの魏志倭人伝になったのです。
新井白石は著書の中で、
「古史通或問」 → 邪馬台国の場所を大和国
「外国之事調書」 → 邪馬台国の場所を九州・山門郡
と説いています。
彼は「邪馬台」を「やまと」に近い音と想定してその場所を比定したと考えられています。
その後の国学者・本居宣長にも引き継がれ、「ヤマト国」を意識した「邪馬台国」が現在にまで至っています。
新井白石に限らず、900年の数十回に及ぶ写本の場合においても、時代ごと、言語ごとに解釈が異なるので、大いに曲解され続けていたと考えられます。