邪馬台国の港は敦賀か?

 邪馬台国・高志が、どこから「鉄」を輸入していたかを、探って来ました。根拠の一つである三韓征伐は、高句麗との間にダイナミックな日本海巡回航路を連想させられます。高句麗の石碑に「倭寇」として残っている事からも、伝説や神話では片付けられない史実と見なすべきでしょう。

 今回は、神功皇后が三韓征伐に旅立った港・敦賀について調べました。近代から古代へ遡りながら、日本海航路の起点となっていた事実や、三韓征伐の起点としての可能性の有無を考察します。

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近代の欧州航路

 中国大陸との交流の拠点は、飛鳥時代から近代に至るまで、高志の国・越前の敦賀でした。

 第二次世界大戦終結までの近代においては、敦賀-ウラジオストク間に定期航路が設けられていました。ウラジオストクからはシベリア鉄道でヨーロッパまで結ばれており、「欧亜国際連絡列車」と呼ばれていました。また、敦賀への鉄道は、大阪や名古屋という近場の大都市からの直行列車だけではなく、東京から敦賀への直行列車も走っており、まさに、日本とユーラシア大陸との窓口だった港町です。

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遣渤海使と敦賀

 奈良時代の中国大陸との交流拠点も、敦賀でした。遣渤海使は、平城京から敦賀へ、そして能登半島の福良津から渤海へ向かいました。出入国管理局は、現在の敦賀市氣比神宮にあったとされ、「松原客館」という場所です。当時は敦賀に入る前に、「愛発関」という関所が設けられ、近畿地方や東海地方から、先進国・高志の国や、中国大陸へ入る玄関口でした。

 ここまでは、古文書により明白です。

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三韓征伐と敦賀

 次に、弥生時代末期の邪馬台国の時代です。記紀には、卑弥呼をモデルとした神功皇后が、その人生の多くの時間を角鹿笥飯宮で過ごしていた、という神話が残っています。これもまた、同じ氣比神宮です。神功皇后は、ここを拠点にして、高句麗などの三韓征伐に向かい、「鉄」の利権を獲得しています

 詳細は、 以前の動画、「神功皇后は卑弥呼」、「遣渤海使から解ける神功皇后の航路」にて述べておりますので、ご参照下さい。

 但し、神功皇后はあくまでも神話の人物です。奈良時代に描かれた記紀よりも500年も前の話ですので、信憑性に乏しいのが現実です。

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敦賀気比神宮

 では、遣渤海使の拠点や、神功皇后の居住地だった氣比神宮とはどういう場所でしょうか。

 この神社は、七世紀の飛鳥時代に建立したとされています。

食物の神・伊奢沙別命(いざさわけのみこと)が主祭神です。

また、神功皇后・仲哀天皇を始め、その息子である応神天皇や武内宿禰など、三韓征伐に関係する多くの人物が祭られています。

 ただしこれは、神社伝説です。すべての神社伝説に言える事ですが、神社の祭神は、古事記や日本書紀が発行された後の時代に付け加えられたものがほとんどです。これを持って、神功皇后の三韓征伐神話の裏づけとはなりません。あくまでも一つの資料です。

 氣比神宮は、奈良時代の遣渤海使の出入国管理局の公的な役割で、民間レベルでも飛鳥時代から中国大陸への窓口でした。しかし、三韓征伐の弥生時代にはどうだったのか、という点では、明確な証拠とはならないようです。

 邪馬台国の港は敦賀だったのか?

近代までの中国大陸との交易実績から考えると、十分に可能性がある港です。しかしながら、三韓征伐の神功皇后伝説は、あくまでも神話です。記紀編纂時に大和朝廷に都合の良いように書かれているので、眉唾ものです。そして、その記紀を基に付け加えられた神社伝説は、日本国中に存在します。

 次回は、弥生時代の敦賀の様子や、記紀編纂に見る大和朝廷の思惑などを考察します。遺跡や古墳の出土品に、「鉄」に関わる重要証拠があるのでしょうか。