越中・富山は密林地帯だった

 高志の国の弥生時代は、越前・福井平野を中心に発展しました。同じ高志の国でも、福井平野から離れれば離れるほど、発展の度合いが低く、辺境の地という色合いが強くなります。

 前回は地学の視点から、越前・加賀地方が汽水湖の水引が遅く、僻地だったと推定しました。 今回は、越中・富山平野です。ここもまた、違った理由で僻地でした。

 地学の視点からは、一般的な河川による沖積平野ですが、弥生時代においては開墾の困難な土地だったのです。

富山10
富山平野

 越中・富山平野は、現代では広大な水田稲作地帯になっていますが、弥生時代には、ほとんど手付かずの密林地帯でした。

 能登半島に遮られて対馬海流の影響を受けないので、淡水湖ができることはなく、一般的な河川による沖積層や、扇状地となっていたからです。これは、鉄器が普及していなかった時代においては、開墾が困難で、大規模な農地は得られない場所でした。

富山20
河川による沖積平野

 まず、河川によって沖積平野が出来た場合の問題点です。

山岳地帯から運ばれて来た堆積物によって、下流域では沖積平野が形作られます。

水田稲作が始まる前の時代では、この沖積平野は放置され、雑草地となり、やがて密林地帯となります。海に面した沿岸地域では、湿地帯となりますが、それを干拓すれば水田稲作に適した土地となり、耕作が行えます。しかし、大規模水田を造れるほどの規模にはなりません。

 鉄器が普及していなかった弥生時代末期においては、この密林地帯を開墾するのは困難でした。

 同じような事例は、日本全国各地にあります。

典型的な例が、邪馬台国の有力候補とされている北部九州です。筑後川による沖積層や、玄界灘沿岸地域の扇状地がまさにこれに当てはまります。筑紫平野という広大な平野を有し、中国大陸や、朝鮮半島から最も近かったにも関わらず、日本の中心になれなかった最大の理由が、ここにあります。広大な農地を得られなかったのです。

 越中・富山平野も、河川による沖積平野だった為に、開墾が遅れ、大きな勢力となる事は出来ませんでした。

富山30
富山平野は密林地帯

  縄文海進時の富山平野は、中央部の丘陵地帯を除いてほとんどが海の底でした。やがて、海面の下降と共に、河川からの堆積物によって扇状地が作られ、密林地帯と化して行きました。

 弥生時代に入って水田稲作が伝来しますが、農耕に適した土地は海岸に面した湿地帯だけで、密林地帯を開墾する術はありませんでした。

 邪馬台国時代の三世紀頃には、密林地帯・耕作地・湿地帯という形が形成され、農業生産は少なく、国力は貧弱でした。

 なお富山平野には、高志の国で最も多くの四隅突出型墳丘墓があります。二世紀頃に高句麗からのボートピープルが高志の国に流れ着き、富山平野の密林地帯の開墾を行ったと思われます。未開の地・越中に追いやられ、そこで開拓を行ったのでしょう。以前の動画「高句麗からの鉄器伝来 倭国の夜明け」をご参照下さい。

富山40
富山平野の水源

 越中・富山は、近世までほとんど表舞台に登場することはありませんでした。富山平野の開墾が本格的に始まったのが、江戸時代になってから、だからです。

 越中が、前田利家の加賀百万石の中に組み込まれ、加賀藩の様々な開墾奨励策が奏効し、農耕地が広がったと考えられています。

 現在の富山平野は、扇状地の土壌改良や治水整備、さらには、立山連峰や白山連峰からの豊富な水源に支えられて、農産物の大産地になりました。

 日本三霊山と呼ばれる、三つの霊山があります。富士山・白山・立山です。

 このうち白山と立山は高志の国にあります。霊山と呼ばれるようになったのは、飛鳥時代以降ですが、高志の国は古来より神聖な場所として崇められていたのでしょう。

 富山平野は、この二つの霊山を水源として平野が成り立っています。また、富山湾では不思議な蜃気楼が発生します。富山は、パワースポットと言える場所なのかも知れません。

 次回は、高志の国・越後の弥生時代の地形や農業生産について考察します。