これまで、高志の国・糸魚川の翡翠について、縄文時代から現代までの歴史などを調査して来ました。そして人々の記憶から消された理由について、
・硬玉の価値の認識欠如
・玉の需要の減少
・仏教伝来
などの説がある事を紹介しました。しかし、どの説にしても、糸魚川の鉱脈自体が忘れ去られる根拠にはなりません。
今回は、翡翠が消えた飛鳥時代から奈良時代の政治状況の視点から、理由を考察しました。
そして、邪馬台国が歴史から消された原因との関係から、一つの説を提唱します。
飛鳥時代から奈良時代に掛けて、高志の国・糸魚川の翡翠が消えた理由は、その当時の政治状況によるものと考えられます。
一言で言えば、「蘇我氏一族によって口封じ」された事によります。
飛鳥時代に滅ぼされた蘇我氏一族ですが、完全に滅ぶ前に、翡翠の鉱脈の在りかを知る者を抹殺し、闇に葬ったのです。それにより、ライバル・藤原氏一族の手に、宝物が渡るのを防いだのです。
安っぽい三流ミステリーのような推察ですが、古代・現代を問わず、いつの時代にも当たり前に行われている事です。
宝物は隠しておくもの、ましてや宝物が敵対勢力の手に渡るくらいなら、その場所を永遠に分からなくした方がまし。蘇我氏一族は、滅亡する者の常套手段を選んだだけなのです。
藤原氏が、邪馬台国を歴史から抹殺したように、蘇我氏が、翡翠を人々の記憶から抹殺したという訳です。
縄文時代から5000年も続いた糸魚川の翡翠は、飛鳥時代を境に、歴史の闇に消えたのでした。
時代背景を検証すれば、権力抗争によって翡翠が消え去るのは自然な流れです。
飛鳥時代に、蘇我入鹿が「乙巳の変」で藤原氏によって暗殺され、「壬申の乱」で滅亡させられました。蘇我氏の地盤だった高志の国は、その当時、日本有数の穀倉地帯でしたが、すべて藤原氏一族のものになりました。
古文書ではっきりしているのは、奈良時代の越前の記録です。高志の国とは縁の無かった藤原氏が、高志の国の中心である越前・福井平野をちゃっかり自分のものにしていたという記録です。
奈良の東大寺を建立する為の、主要な財源として、越前で生産された米が利用されていたと記されています。蘇我氏を滅ぼした藤原氏が、高志の国の利権を奪い取ったのは事実でしょう。
そして当然ながら、宝石・翡翠の利権も奪い取ろうとしたはずです。
ところが、高志の国のどこから産出されるのか分からなかったという訳です。
農地という隠しようのない財産は、藤原氏によって収奪されましたが、宝物の在りかは、見つけられなかったという事です。
現代のように、交通や通信網が発達している時代ではありません。情報が容易に漏れる事の無い時代です。ましてや、宝石の鉱脈という最も重要な情報を、蘇我氏一族がみすみす藤原氏へ教える訳がありません。一族が亡びる前に、糸魚川・翡翠の秘密を知る家臣や、翡翠採掘に当たっていたその土地の労働者たちに緘口令を敷いた、あるいは、蘇我氏一族が自ら皆殺しにして歴史の闇に葬った、と見ても不自然ではないでしょう。
記紀の中では、蘇我氏は三韓征伐の英雄・竹内宿祢を祖とした近畿の有力豪族、という事になっています。但し、政治の表舞台に現れるのは、高志の大王・継体天皇が出現した後で、一気に朝廷の最重要ポストに上り詰めています。
記紀を素直に信じ込むのではなく、勢力バランスと勝者の論理から見れば、蘇我氏は、高志の国の豪族で、継体天皇と共に近畿を征服したと見るべきです。
また、継体天皇が越前の大王だった時代に、海洋交通の要衝・三国の国造(くにのみやつこ)だった若長足尼は蘇我氏一族で、近畿征服に大活躍している事。さらに、竹内宿祢もまた、越前の豪族だったと見られます。三韓征伐神話そのものが、越前の伝説を基にしているからです。
若長足尼・竹内宿祢、共に「すくね」です。もしかすると、同一人物を神話化しているのかも知れません。
いずれにしても、蘇我氏一族が継体天皇の家臣として、高志の国を基盤としていたのです。
一方、藤原氏は九州系の豪族と見られます。藤原氏と蘇我氏との関係、そして、邪馬台国が歴史から消された理由は、以前の動画にて考察していますので、ご参照下さい。
歴史から消された邪馬台国と、人々の記憶から消された翡翠。
どちらも、飛鳥時代の権力抗争が招いた高志の国の悲劇、と言えるでしょう。
このように、高志の国・糸魚川の翡翠が人々の記憶から消えたのは、関係者を抹殺した事によります。権力抗争に敗れた蘇我氏一族が、翡翠という宝物の利権を、藤原氏の手に渡るのを防ぎ、やがて、人々の記憶から消えて行ったのです。
翡翠がどれだけ重要だったかを知る手掛かりが、地名に残っています。長野県の安曇野です。高志の国・能登の海人族・安曇氏一族が移り住んだ土地です。海の民でありながら、内陸の地域に移り住んだのは不思議です。
これは、糸魚川翡翠の流出や、鉱脈情報の漏洩を防ぐ為に、高志の有力豪族を配置したと見れば、自然ではないでしょうか。