こんにちは、八俣遠呂智です。
邪馬台国が日本の古文書に登場しない理由を探っていくと、奈良時代に最高権力者に上り詰めた藤原氏の思惑がちらつきます。藤原氏にとって不都合な存在、それこそが邪馬台国です。ところが藤原氏の系譜を辿って行くと、なんとも掴みどころのない不可思議な一族である事が分かります。圧倒的な勝者であるにも関わらず、日本書紀に書かれているご先祖様は、あまりにもショボいからです。
今回は、藤原氏の出自を日本書紀に従って遡ってみます。
まず、日本の歴史書は多かれ少なかれ藤原氏一族の息が掛かっていますので、それをそっくりそのまま信用して良いものかどうか? というところから入らなければなりません。
日本で最も古いとされる歴史書は、古事記や日本書紀ですが、それ以前にも「国記」や「天皇記」という歴史書があったとされています。残念ながらそれらのほとんどは、七世紀に起こった乙巳の変や壬申の乱の際に焼失してしまいました。焼失したというよりもむしろ、その後の政治状況を眺めてみれば、藤原氏一族によって意図的に焼失させたという方が正しいでしょう。なぜならば、それまでの歴史書は蘇我氏一族の手によって編纂されてきたものだからです。
八世紀になって全く新しい歴史書が編纂されました。それが古事記であり日本書紀です。当然ながら藤原氏一族の意向が強く反映された歴史書である事は、言うまでもありません。
なお、古事記や日本書紀よりも前に編纂された「上宮記」という歴史書もありました。これは焼失を免れて蘇我氏の分家に保管されていたもので、鎌倉時代までは存在していたようです。「釈日本記」という書物に引用がありますので、逸文として存在が知られています。この上宮記は、第二十六代継体天皇から聖徳太子までの歴史書ですので、まさに北陸地方を基盤としていた蘇我氏一族の歴史書、とも言えます。
この「上宮記」が残っていた事や、蘇我氏本宗家が滅亡した後も蘇我氏の分家は藤原氏に味方して、朝廷の重要ポストに付いた事、などから、藤原氏としても蘇我氏一族を完全に悪者扱いする訳にはいかなかったのではないか? と推測します。現に、聖徳太子は蘇我氏一族ですし、日本書紀の中で彼をスーパースター扱いしたのは、藤原氏一族だからです。
但し、蘇我氏一族の元祖とも言える継体天皇については、北陸地方の大王だったという存在を認めているだけで、かなりショボい扱いにしています。藤原氏の味方をした蘇我氏の分家に不満が燻らないように、聖徳太子でガス抜きをしたのではないのか? と思えてなりません。
では、古事記や日本書紀が編纂された時代、すなわち西暦600年代前半の政治状況を見てみましょう。
その当時は、まだ藤原氏が朝廷における最高権力者だったわけではなかった様子が、日本書紀に記されています。
中臣鎌足が乙巳の変で蘇我氏本宗家を滅亡させ、藤原という姓を受け、藤原不比等の代から権力を握ったように思われがちです。しかし、壬申の乱では天武天皇と反目し、戦いに敗れました。当然ながら勝利した天武天皇の下では冷遇されていたと記されています。天武天皇は、壬申の乱で焼き尽くした日本の歴史書を、新たに編纂する事を命じた人物です。この事から、日本書紀は藤原氏に都合よく書かれてはいない、と主張する研究者も存在しています。
ただし、天武天皇が崩御したのは西暦686年で、日本書紀が発行されたのはその24年後の西暦710年ですので、その間に実質的な最高権力者になったのは、藤原不比等です。その流れを鑑みれば、新たに作られた歴史書は、やはり藤原氏に都合の良いように書かれたと見る方が自然でしょう。
また仮にそうでなかったとしても、つまり日本書紀が藤原氏に不都合な内容だったとしても、平安時代の藤原道長の時代には不動の最高位に就いていたわけですので、いくらでも改変できたでしょう。いや、実際に藤原氏によって都合よく改変された内容が、日本書紀の姿だとも言えます。
これらの事から、現代において日本最古の正史とされる日本書紀、および古事記は、藤原氏一族の意向が大いに反映された歴史書と見て間違いありません。
このような時代背景で著わされた日本書紀ですが、不思議な事に藤原氏一族の系譜があまりにもお粗末なのです。
もちろん古代の氏族の系譜は、どれもあいまいで、神話の人物とも結びついていますので、藤原氏に限った事ではないとも言えます。しかしながら、葛城氏、物部氏、大伴氏、秦氏、などの主要豪族は、古代史の英雄を祖先に持ち、一応は由緒正しい系譜になっています。これは藤原氏のライバルである蘇我氏一族についても言える事です。ところが、藤原氏の祖先である中臣氏は、八百万の神々が祖先である事にしてはいるものの、古代史の英雄をすっ飛ばして、いきなり現実世界の人物が先祖となっているのです。乙巳の変で彗星の如く現れた中臣鎌足は、十代前にまで遡る事が可能なのですが、古代史の英雄ではなく、いわば「どこの馬の骨とも分からない」、そんな氏族が藤原氏という事になっているのです。
藤原氏のライバル・蘇我氏の系譜と比べてみましょう。
まず蘇我氏ですが、蘇我入鹿を遡ると馬子や稲目など、ヤマト王権の頂点で大活躍した面々が名を連ね、八代前には古代史の英雄・武内宿祢がいます。神功皇后と共に三韓征伐などで活躍した人物で、他にも、葛城氏などの中央有力豪族の祖とされています。武内宿祢をさらに遡ると、 第八代・孝元天皇となりますので、天皇家の血を引く由緒正しい家柄だという事です。
また、百済仏教導入で有名な蘇我稲目、聖徳太子とその政治を補佐した蘇我馬子、ヤマト王権を私物化した蘇我入鹿など、錚々たるメンバーが名を連ねています。
一方、藤原氏の方はどうかというと、その系譜はショボいものです。中臣鎌足から順に遡って行くと、
中臣御食子(なかとみ の みけこ)
中臣可多能祜(なかとみのかたのこ)
中臣常盤(なかとみのときわ)
中臣黒田(なかとみのくろだ)
中臣鎌子(なかとみのかまこ)
中臣真人(なかとみのまひと)
中臣阿毘古(なかとみのあびこ)
中臣阿麻毘舎卿(なかとみのあまひさ)
大小橋命(おおばせのみこと)
中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)
聞いたことのない名前ばかりですね? それはなんの活躍もしていないからです。
この中で、中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)の時代は、注目に値します。
中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)は、神功皇后や武内宿祢と同じ時代の人物です。しかし、蘇我氏の先祖である武内宿祢が英雄であるのに対して、藤原氏の先祖はショボいものです。武内宿祢の活躍とは雲泥の差があります。さらに、中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)よりも前の系譜に遡る事はできず、いきなり八百万の神々の一人である天児屋命(あめのこやねのみこと)が、中臣氏の祖神となってしまいます。天児屋命(あめのこやねのみこと)というのもまた、大した神様ではなく、天照大神の岩戸隠れの際に岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。という程度の神様です。また、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴した、ともされていますので、地理的には日向の国・宮崎県と関係の深い神様という事になります。
これらのように、最高権力者である藤原氏一族の血脈が、どうしてここまでショボいものなのか? 理解に苦しみます。そこで、私が推測した仮説は、「天皇家の歴史=藤原氏の歴史」であるとなります。天照大神から天孫降臨、日向三代、神武東征へと続く天皇家の系譜、これはそっくりそのまま藤原氏一族の系譜ではないのか? という推測に至りました。
いかがでしたか?
最高権力者でしたので、いくらでも立派な血脈の歴史を書くことが出来た藤原氏一族。ところが日本書紀には、どこの馬の骨とも分からない系譜しか書かれていません。この系譜で満足していたとしか思われません。これはすなわち、藤原氏こそが天皇家であり、天皇家こそが藤原氏であるからこそだと思うのですが? 皆様はどう思われますか?
次回は、諸説ある藤原氏の系譜をいくつか取り上げて行きます。