大陸・九州の玄関

 遣渤海使は大和朝廷によって公的に始まった使節ですが、それ以前から、中国大陸と高志との民間交流は頻繁に行われていました。

 それを示す遺跡や遺構、地名などが、各地に残っています。

 民間交流の痕跡は、邪馬台国よりも前の、弥生時代中期まで遡る事ができます。

 今回は、時代を飛鳥時代から奈良時代までに限定して、中国大陸から高志に渡って来た人々について、調査しました。

 なお、中国東北部の渤海は698年建国で、それ以前は強国・高句麗でした。その影響で、中国東北部の事を日本では、『高麗』(こま)と呼び、渤海建国後もその呼称は続いていたようです。

 数多く存在する高麗と関連する地域の中から、石川県小松市、若狭湾の2ヶ所について調査しました。

九大1
遣渤海使から遡る年表[邪馬台国]

 この年表は、弥生時代後期から奈良時代までの中国大陸との交流を示しています。

邪馬台国の魏への朝貢から始まり、高志の大王・継体天皇の出現による近畿地方の先進文明流入、そして、遣隋使・遣唐使へとつながっています。

 前回は、高志の国が、奈良時代の遣唐使と同じ時期に、遣渤海使の窓口として中国大陸と直接交流していた事実を示しました。

 これは、高志の国が中国大陸との日本海ルートを確立していた事を証明しています。非常に効率的なルートで、造船技術と航海技術が想像以上に進んでいた事が分かりました。

 遣渤海使に先立ち、民間の交流は頻繁に行われていましたので、そこで培われた技術だったと思われます。

 高志の国と中国大陸との直接交流は、出土品などから、弥生時代後期には既に始まっていたと見られます。

 まずは、時代を少しずつ遡って、高志の国と中国東北部との直接交流の歴史を辿って行きます。

 今回は、飛鳥時代から奈良時代に掛けての交流です。石川県小松市、若狭湾の二つの地域について、遺跡や伝承を紹介します。

九大2
小松は高麗の津[邪馬台国]

 まず、石川県小松市です。ここは、対馬海流がぶつかる越前海岸から能登半島に至る海岸線の、中間地点に位置しています。この地域からは、飛鳥時代から奈良時代に掛けての中国東北部の住居跡の遺跡が、数多く見つかっています。オンドル遺構群です。

 オンドルとは、中国東北部の特有の床暖房住居です。かまどの熱を床下に通して床を温める構造です。小松市では、このオンドル住居が20以上発見されていますので、飛鳥時代に高句麗や新羅あたりから多くの移民がやって来た事を物語っています。

 また、小松市近辺には、飛鳥時代の製鉄所跡も発見されています。鉄器国家・高句麗の影響の大きさが窺い知れます。

 なお小松の名前の由来は、「高麗(コマ)の津」から来ているという説があります。高句麗と結びつく遺跡の多さを見れば、その説には説得力があります。

九大3
若狭湾の由来[邪馬台国]

 次に、若狭湾です。若狭という言葉自体が、朝鮮語の往来を意味する「ワカソ」、から来ているという説があります。実際、古来より朝鮮半島や中国東北部との交流の起点となっていた場所です。

九大4
敦賀と小浜の使い分け[邪馬台国]

 この地域には、高志の国・敦賀と、若狭の国・小浜があります。飛鳥時代・奈良時代においては、これらの港の使い分けがありました。

 敦賀は、中国大陸の窓口として、小浜は朝鮮半島や北部九州からの窓口としての役割です。

九大5
小浜の役割[邪馬台国]

  小浜には、高句麗や新羅からの技術者の流入が多く、飛鳥・奈良時代には、玉造りの技術者が移住しています。現代にも受け継がれている「若狭瑪瑙」は、彼らによって奈良時代には生産されていた事が、文献に明示されています。

 また、大陸文化の間接的な窓口としても、小浜は重要でした。中国大陸から九州・大宰府に帰って来た遣隋使や遣唐使たちが、近畿へ入る窓口でした。対馬海流と季節風を利用して、超高速で小浜まで帰航する事が出来たからです。

 これを裏付ける証拠が、儀式として現在も残っています。

奈良の東大寺で春を告げる「お水取り」の儀式です。これに10日ほど先立って、小浜で「お水送り」の儀式が行われているのをご存知でしょうか。諸説ありますが、これらは、中国大陸から帰って来た

人々を、祝福する儀式だったと考えられています。

 松明を持って小浜の遠敷川を遡り、遣唐使たちが奈良へ無事に着くようにお見送りしたようです。

 これらの他にも、高志の国が、飛鳥・奈良時代の中国大陸との交流を示す証拠は数多く残っています。有名な所では、埼玉県の高麗川です。奈良時代に、越後の国に流れ着いた中国東北部(高句麗)の人々が、峠を越えて関東地方に入ったとされています。その当時は、武蔵野の森という後進地域だった関東地方ですが、彼らの活躍により、大いに開拓・開墾されたと言われています。現在でも、高麗川流域には、高句麗を祭った神社などが数多く残っています。

 邪馬台国の卑弥呼・壱与の時代を追究する上で、後の時代の動きを調査する事は、非常に重要な手段です。日本海をダイナミックに動き回っていた高志の国の姿や、実際の航路、中国大陸からの人々の移動などは、弥生時代からの下地があっての事です。

 次回は、飛鳥時代から更に時代を遡って、古墳時代の高志の国の様子を調査します。