記紀が編纂された奈良時代において、中国大陸との交流は遣唐使が有名です。しかし、もう一つ、中国との公的な使節があったのをご存知でしょうか?
『遣渤海使』です。これは、高句麗が滅んだ後の『渤海』という国との使節団です。
大和朝廷の公的使節で、渤海からは34回の来日、日本からは13回の派遣の記録が残っています。
遣唐使の場合よりもはるかに多い回数で、大陸からの大量の文物流入がありました。
この遣渤海使の窓口だったのは、北部九州ではなく、『高志』でした。大陸文化が高志の国に直接入って来ていたのです。
邪馬台国の時代から、高句麗・新羅との密接な関係がある高志の国ですので、遣渤海使の事実も不思議ではありません。
今回は、渤海という国の基本的な要素を整理しました。
これは、3世紀頃の東アジアの勢力図です。
中国東北部においては、紀元前に高句麗という国が出現し、最盛期には朝鮮半島の80%を支配した強国が存在していました。この国は騎馬民族であり、鉄器文明の先進国でもありました。邪馬台国時代の日本に鉄器が大量に流入したのは、この高句麗の勢力拡大の影響が強いとされています。新羅を攻め立てて、多くのボートピープルが日本に流れ着いた為と言われています。実際に、日本海側の高志や出雲では、邪馬台国時代の1世紀から3世紀に大量の鉄器が出土しており、九州の鉄器出土量を上回っています。
この高句麗は、7世紀に滅亡しました。その後に出現したのが、渤海という国です。
これは、8世紀頃の東アジアの勢力図です。
中国東北部に新たに出現した国家が渤海です。渤海もまた騎馬民族で、鉄器先進国でした。
中国東北部は、良質な鉄鉱石の産地であると同時に、石炭が露天掘りできるほど豊富な地域だからです。この渤海との交流の窓口だったのが、高志の国です。
遣渤海使は、727年に、国書と贈り物を携えた渤海の使者が大和朝廷に朝貢し、その翌年に、日本からの使者を送ったことから始まりました。約200年間の交流が続き、渤海からは34回の来日、日本からは13回の派遣の記録が残っています。
なお、遣唐使の場合、唐から日本への使節は、僅か2回しかなく、交流というよりも中国への一方的な付き合いでした。日本から唐への派遣は20回程度ですので、朝貢という意味合いが強いものです。
渤海使の場合は、頻繁に行われた相互交流で、多くの大陸の文物をもたらし、日本の文化に大きな影響を与えたと言えます。
なお、遣唐使が、渤海経由で唐に渡ったり帰国したりした事もありますので、渤海は、日本と唐との中継的な役割も果たしています。
では、
・どうして渤海と日本との窓口が、九州ではなく高志だったのか?
・どのようなルートで、中国東北部から高志へ直接渡って来れたのか?
・邪馬台国時代も、中国東北部と交易があったのか?
などなど、色々な疑問が湧いてきますが、それらはいずれ解明して行きます。
今回は、当時の中国東北部の事情について、簡潔に説明します。
中国東北部は、満州系の騎馬民族が住んでおり、モンゴル民族の発祥の地とも言われています。洛陽や長安などの中原に比べれば、文化的には後進地域です。しかし、機動性の高い騎馬集団であり、鉄鉱石や石炭が豊富な、鉄器の先進地域でしたので、長い中国の歴史の中で、幾度も中国全土を支配しています。平坦な大陸を駆け回る騎馬民族だけに、情報の伝達も早く、洛陽や長安の文化は、瞬く間に中国東北部へ広がったと言われています。
常に中華民族から恐れられていた存在でした。中華民族の中心が、後の時代に中原から北京に移ったのは、この騎馬民族対策だったと言われています。
渤海の出現は、高句麗を滅亡させた「唐」と「新羅」の援助があったので、これらの周辺諸国と友好関係にありました。 これは、戦闘的な高句麗とは対照的です。
首都「上京龍泉府(じょうけいりゅうせんふ)」は、奈良の平城京と同じように、長安の都を模して計画的に造られた巨大都市でした。当時の人口は、東アジアにおいて、長安に次ぐ大都市だったようです。
日本との関係においても、最初に渤海の方から日本へ朝貢して来たという、温和な国家だったようです。
紀元前から中国東北部で強大な勢力を誇った「高句麗」。その滅亡後に出現した「渤海」。高句麗によって追い出され、ボートピープルとなって流れ着いた先は、日本海側の「高志」や「出雲」でした。
彼らは、継体天皇の下で渡来人として活躍し、近畿地方の近代化に大いに貢献しました。そういう渡来人ネットワークがあったからこそ、渤海の出現で、『遣渤海使』という良好な相互交流が始まったのでしょう。
遣渤海使を理解する事は、邪馬台国時代の、日本海における大陸からの文物の流れを理解する上で、非常に重要です。九州だけが窓口ではなかった事は、明らかでしょう。
次回は、遣渤海使がどのようなルートで日本海を渡り、なぜ高志の国が窓口になっていたのかを、解明して行きます。