魏と倭との大きな文明格差

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、38回目になります。

女王國が中国・魏の国へ朝貢を行ったのは、三世紀です。その当時は、日本と中国には大きな文明格差がありました。残念ですが、中国の方が遥かに上を行っていました。それを証明するように、魏の皇帝からの下賜品は、倭国の使者たちが度肝を抜かすような品々ばかりでした。悔しいですが、事実として認めざるを得ません。

 今回は、下賜品の中の繊維製品に焦点を絞ってみます。

 まず、魏志倭人伝の全体像を示します。大きく3つの章に分けられており、

 最初は、諸国連合国家である女王國について。

次に、倭人の風俗習慣について。

最後に女王國の政治状況について。

 となっています。周辺諸国の話は、この章からです。

 これまでに読み進めた内容を要約します。

邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。

 行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。

 女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

  風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。

北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。

また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。

 さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。

 倭国の政治状況の章に入ると、一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國。卑弥呼に関する記述。 さらに、女王國の周辺諸国の話となり、侏儒国というコロボックルが住んでいた地域、船で一年も掛かかる裸国や黒歯国の話へと続きました。

 前回からは、倭国の朝貢に対して、魏の皇帝からの詔の記述へと進みました。

まず、ねぎらいの言葉から始まり、倭国から持って来た朝貢品の内容。そしてそれに対する下賜品として、仮の金印、仮の銀印を預ける、難升米と牛利には魏の国の役職を与える、絢爛豪華な下賜品を授ける、という旨の記載がありました。

 今回、魏の皇帝からもらった絢爛豪華な下賜品の内訳を詳しく見てみましょう。まず、織物類です。

  絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 倩絳五十匹 紺青五十匹

「絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹」

絳地交龍錦(こうじこうりゅうきん)とは、(真っ赤な布地に竜が交差した錦)。五匹

絳地縐粟罽(こうちすうぞくけい)とは、(ちぢみの粟模様のある毛織の敷物)。十張

蒨絳(せんこう)とは、(深紅色のつむぎ)。五十匹

紺青(こんじょう)とは、(濃い群青色の織物)。五十匹

とても豪華な品々です。

 これらに加えてさらに。

  又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹

「また特に汝に、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹」

 とあります。

 紺地句文錦(こんじこうもんきん)とは、(紺色のカギ模様のついた錦)。三匹

 細班華罽(さいはんかけい)とは、(細かい花模様をまだらにあしらった毛織物)。五張

 白絹とは、(加工のされていない絹織物)。五十匹 

先に書かれていた下賜品は女王國に対するものだったのに対して、ここでの下賜品は卑弥呼本人に対しての意味合いがあるようです。なぜならばこの文章の冒頭には、詔の対象者である「汝」、という言葉が掛かれている上に、特賜という特別なプレゼントであるという言葉も書かれているからです。卑弥呼本人を特定してプレゼントしたのが明確に分かります。錦や花柄模様といった可愛らしい布類と、まっさらな白い絹織物。女性が喜びそうなプレゼントですね?

 ここで、倭国から魏の国へ持って行った朝貢品と、魏の国から倭国へ与えた下賜品を比較してみると、その当時の両国の文明格差が見えてきます。

倭国から持って行った織物は、

「斑布二匹二丈」

だけです。麻布が40メートル分です。それに奴隷が10人でした。

これに対して、魏の国から倭国へは豪華な織物類に加えて、

 「金印、銀印、金八兩 五尺刀二口、 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤」。でした。

 圧倒的な格差がありますね?

そもそも朝貢外交というのは、小さな国が大きな国に対して、ご機嫌伺いをするようなものです。小さな国から僅かばかりの献上品を差し出して、それに対するご褒美として大きな国は、その何倍も何十倍もの価値のある品々を小さな国へ与えてやる。これが基本です。魏志倭人伝に記された朝貢品と下賜品との格差は、その当時としては当たり前だったのかも知れません。

 それにしても、古代日本と古代中国。悔しいけれども、大きな文化的較差があった事は認めざるを得ないでしょう。

 古代日本と古代中国の格差の顕著なものは、繊維製品です。

その当時の日本は、倭人伝の風俗習慣にも記述されていた通り麻で作った布を使って衣服をこしらえていました。絹の生産もしていた記述もありますが、一般には普及していなかったようです。おそらく品質が劣悪だったのでしょう。

 その証拠が、魏の国への朝貢品に表れています。倭国から持って行ったのは、お粗末な麻布でした。

それに対する魏の国からの下賜品は、絹織物、毛織物、といった高級繊維の上に、金の糸・銀の糸を用いて刺繍を施した絢爛豪華なものでした。これには、倭国日本の使者たちは仰天したのではないでしょうか? 自分たちが持って行った貢物があまりにもみすぼらしい事に、大いに恥じたに違いありません。

 こういう文化的較差を見せつける事が、魏の国の思惑だったのかも知れませんね? 「この国には敵わない」、と思わせる事が、豪華な下賜品の最も重要な目的だったのでしょう。

 ちなみに、現代でもよく似た事例があります。第二次世界大戦後の日本とアメリカとの関係です。戦争に敗れた日本が目にしたアメリカ合衆国は、あまりにも豊かで、あまりにも大きな文化的較差がありました。「こんな国と戦争するんじゃなかった。」と、誰しも思った事でしょう。

 

 倭国から中国への朝貢は、この後も2回行われており、その際には「絹」と思しき品も含まれています。どうやら一回目の朝貢で赤っ恥をかかされたので、二回目以降には、「私たちも絹を作れるよ。」と示したかったのでしょう。

けれども技術格差はほんの数年で追いつけるものではありません。

 実際、日本列島全域で絹の生産が始まるのは、五世紀以降ですので、邪馬台国の時代よりも200年も後になります。それまでは、品質が悪すぎて使い物にならなかったのは自明です。

 実際、邪馬台国があった3世紀頃までは、絹の生産は北部九州に限られていたようです。考古学的な見地からも、北部九州以外からの出土はありません。

 これは、絹が日本列島に伝来したのが遅かった為に普及したのが遅れた訳ではありません。伝来した時期ははかなり古く、紀元前3世紀頃です。鉄器や青銅器の伝来と同じ時期です。また、水田稲作文化が遠賀川式土器と共に日本全国に広がった時期とも同じです。ところが、絹だけは日本全国に広がらず、北部九州だけに留まっていました。

 それは、北部九州で生産された絹の品質が、とても悪かったからにほかなりません。絹の生産はとても手間のかかる大変な仕事ですが、それにも関わらず品質が悪ければ、日本全国に普及する訳がないですよね?

 邪馬台国時代の「絹」は、北部九州だけの物珍しい「特産品」としての価値しか無かったのです。

 いかがでしたか?

三世紀の日本と中国に、大きな文明格差があった事は認めざるを得ないでしょう。なにせ、中国はその数千年前から文字を使っており、王朝が存在し、孔子や孟子といった思想家までも存在していたのですから。それに比べて日本は?

しかし卑下する必要はありません。もっと前の縄文時代初期には日本の方が上だったのですから。そして現代も上ですよね?

 ここは素直に、邪馬台国や女王・卑弥呼を文字として残してくれた中国に感謝すべきでしょう。

邪馬台国チャンネル

特産品からは邪馬台国は特定できない

 邪馬台国九州説支持者の中には、「絹」に拘る方が結構いらっしゃいます。それは、魏志倭人伝の中に「絹を生産している」という記述がある事と、邪馬台国時代の絹の出土が北部九州しかない事、を根拠にしています。確かに書いてありますし、出土も北部九州からしかありません。

 しかしこれは、根拠としては希薄すぎますね。

まあ何度も申しています通り、魏志倭人伝は邪馬台国見聞録ではありません。倭人の事を書いてあるのであって、邪馬台国を特定したものはありません。いくら出土したからと言って、その場所が「倭国である」という根拠にはなりますが、「邪馬台国である」という根拠にはならないのです。

 これと同じような事例もあります。「朱丹が採れる場所が邪馬台国だ」とする説です。これも確かに魏志倭人伝には書かれていますが、邪馬台国から採れるなんてどこにも書いてありません。朱丹が採れれば、倭国の一部だという証明にはなりますけどね。朱丹を採掘して、邪馬台国へ献上したのかな? という程度の話です。

 特産品からは邪馬台国は特定できません。