邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、24回目になります。倭国の風俗習慣の記述に入っていますが、今回は、女王國の厳しい掟についての描写です。海を渡って遠方へ旅立つものの決死の覚悟や、それが成功した場合・失敗した場合の扱いについて記されています。卑弥呼の命を受けて魏へ朝貢した者たちも、このような厳しい掟の上で旅立って行ったのでしょう。
これまでに読み進めてきた魏志倭人伝の内容です。
まず、この図のような邪馬台国までの行路の記載がありました。
朝鮮半島・帯方郡から、邪馬台国に至りました。途中に通過する国々だけでなく、奴国と邪馬台国との間には、20ヶ国の旁國があります。これらをすべて含めた30あまりの国々が連合した国家が「女王國」であり、その中の一つが邪馬台国であって、女王の都だと分かります。
行路の記述では、九州島に上陸してからはずっと、90度のずれがありました。これは、魏の使者たちを欺く目的があったようです。
女王國に敵対していた狗奴国については、ここでは南に位置するとだけ書かれていましたので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。
また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。
邪馬台国までの行路の次には、風俗習慣が記されています。倭人が体中に文身をしていたり、服装や髪型、絹などの織物類、といった描写や、竹鏃・鉄鏃などの武器に関する事、家畜の有無などが記述されていました。
また、倭国は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べていたり、みな裸足だという記述もあり、それらは、中国南部の海南島と同じだとされています。日本列島で比較的南に位置している九州島でさえも、全く一致しませんね?
行路の記述において90度のズレがありましたので、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね?
海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったのでしょう。
さらには人々の生活についても描写がありました。父母・兄弟は別な場所で寝起きするとか、赤色顔料を体に塗っているとか、食事は器から出掴みで食べているとか、人が亡くなった際のお墓の形式や、お葬式の風習など、かなり詳細な部分にまで及んでいました。
風俗習慣のさらにその先を読み進めると、倭国の厳しい掟についての記述になります。
「其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰」
「その行来、渡海し中国に詣るに、恒に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服は垢汚し、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。」
これは、海を渡って中国へ朝貢に出かける者の行いを描写しています。古代の旅は命がけでした。船がとても稚拙でしたから難破する確率が高かったでしょうし、陸路も獣道しか無かった時代です。さらに、道中には海賊・山賊などの厄介者も多かった事でしょう。、決死の覚悟で旅立つ準備をしていた様子が窺えます。
一人きりになって、髪はボサボサ、シラミだれけ、垢だらけ。肉を食べない、女性を近づけない、喪に服している人のようにしている。との事です。このようなルーティーンが決められていたのでしょう。現代にも通じるものがありますね? しかし、体を汚くしていたというのは理解できませんが。あっ、そういえば、お相撲さん。勝ちっぱなしの時は髭を剃りませんね? いわゆるゲン担ぎだったのでしょう。
このような旅立つ前のルーティーンを、「持衰」ジサイと呼んでいたそうです。
そして、旅を終えたものの扱いについての記述になります。
「若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。」
「若し、行く者に吉善ならば、共にその生口、財物を顧す。若し、疾病が有り、暴害に遭うならば、便(すなわ)ち、これを殺さんと欲す。その持衰が謹まずと謂う。」
もし無事に旅を終えたならば、その者に財産や召使いを与えました。しかしもし、病気を患ったり、危険な目にあったりしたした場合は、その者を殺そうととした。とあります。
任務をしっかり果たした者には、しっかりとご褒美をあげるけれども、失敗した場合には問答無用で処刑したという事です。旅を終えた後も、天国か地獄ですね?
日本社会の「無駄な厳しさ」は、この頃から培われていたようです。
このような厳しい掟で思い出されるのは、因幡の国・鳥取県の青谷上寺地遺跡ですね?
弥生の博物館と呼ばれるほど、豊富で個性のある様々な遺物が発見されており、時代的にもまさに邪馬台国と同じ3世紀とされている遺跡です。ここからの出土品の一つに、殺傷痕のある人骨が100体以上も見つかっています。成人男性の遺体だけでなく、女子供の殺害遺体も確認されています。この写真のように、頭蓋骨に鏃が突き刺さった跡のあるものもあり、とても残虐な方法で殺されています。
なぜ殺害されたのかについては、さまざま説があります。部族間の争いで勇敢に戦った人々や、侵略されて集落全体を乗っ取られた? そして、今回の魏志倭人伝の内容のように集落内部の掟で処刑された可能性もありますね?
海を旅する者の掟もありますが、そのほかにも、悪事を働いた場合の厳しい掟も記されていますのでその可能性です。この場合には、一族郎党が処罰される旨の記述がありますので、女子供の遺体がある事との一致も見られます。
真相は分かりませんが、邪馬台国の時代には厳しく統制された社会だったという一面が垣間見られます。
なお、青谷上寺地遺跡のある因幡の国は、諸国連合国家である女王國の中の一つでした。地域的には但馬・丹後・丹波で構成される「投馬国」に近い場所です。多分に漏れず、この地からも大量の鉄器の出土があります。
なお、この遺跡自体の規模は小さい上に、大きな農業生産を上げられる平野が狭い為に、この地に強力な勢力があったとは考えられませんが、女王國を構成していた21ヶ国の旁國の一つだった可能性はありますね?
今回の魏志倭人伝の記述も、邪馬台国を特定したものではありませんが、女王國という連合国家の中で同じように厳しい掟が定められていたのかも知れませんね?
いかがでしたか?
青谷上寺地遺跡から見つかった人骨100体は、DNA鑑定が継続的に続けられており、弥生人だけでなく、縄文人系、北方大陸系などのDNAなども検出されています。この結果からは、環日本海文化圏とも言える邪馬台国時代の人々の
動きまでも見えてきますので、注目に値します。
出土品には、弥生人の脳みそや多種多様な木製品なども、とても良い保存状態で見つかっていますので、弥生の博物館と呼ぶにふさわしい遺跡です。見学される事をお勧めします。
支配階級は縄文人だった
よく知られているように、縄文人と弥生人とは異なるDNAが強調された、異なる人種なのですが、弥生時代にはまだまだ共存していたのでしょうね?
そんな中で、もちろん推測に過ぎませんが、縄文人が上層部の支配者階級だったのではないかなぁ~、と思っています。一般論とは逆ですが。。
なぜかというと、縄文人はそもそも海の民だからです。環日本海を海流を利用してぐるぐると、反時計回りに移動していた人々です。とても危険な仕事していました。
彼らがいたからこそ、九州の直方平野あたりで確立した水田稲作文化が、あっという間に青森にまで広がったのです。農耕民族の弥生人では不可能です。
それを考えると、命の危険にさらされる海の仕事を縄文人が行って、安全な農作業を弥生人にやらせていた。つまり、縄文人は支配階級で、弥生人は労働者階級だったのではないのかなぁ、と思っています。