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古代史最大のミステリー、邪馬台国の場所はどこにあったのでしょうか?
江戸時代の新井白石以来、300年に渡って論争が繰り広げられて来ましたが、未だにその謎は解明されていません。
今回は、論争の原点である魏志倭人伝について、ベースになる基本的な部分を整理します。
魏志倭人伝は、西暦三世紀に中国に存在していた魏・呉・蜀という三つの国々の歴史をまとめ上げた「三国志」という中国正史の中に書かれています。黄河流域から朝鮮半島までを勢力基盤としていた魏、長江流域を勢力基盤としていた呉、四川盆地を勢力基盤としていた蜀、この三国の歴史がそれぞれまとめ上げられています。三国志は、これらが滅んだ後の晋という国の時代に、陳寿という人物によって三世紀末ごろに書かれたとされています。
膨大な量を有する三国志ですが、その中の魏の史料の中のほんの一部分に、倭国・日本の当時の様子が描かれていました。これが魏志倭人伝であり、正式名称を「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条、といいます。
三国志は陳寿によって書かれたとしましたが、もちろん何の資料もの無い状態から書き上げたものではありません。魏志倭人伝を含む魏に関する歴史については、北沈という魏の高官によって書かれた「魏書」という書物があり、また魚豢(ぎょかん)という人物が書いた「魏略」という書物も先に存在しており、それらの内容を陳寿が取捨選択しながら編集したものと見られています。
したがってその編集段階での事実の齟齬や誤解・思い込みは、多数あった事でしょう。
また、現代において最もよく目にする三国志は、印刷技術が進化した12世紀に刊行された「紹煕本(しょうきぼん)」という書物に記されているものです。原本は、3世紀後半に書かれていますので、900年間も写本に継ぐ写本がなされていた事になります。その段階で文字を誤って写本された可能性も多分に考えられます。
一方で、日本国内で魏志倭人伝が読まれるようになったのは、17世紀後半、江戸時代の学者・新井白石からです。
邪馬台国論争の先駆者ですが、ここでも魏志倭人伝は早速曲解されています。そもそも紹煕本(しょうきぼん)には、「邪馬台国」とは書かれておらず、「邪馬壹国」と書かれていたのですが、新井白石は大和朝廷に忖度して、「邪馬台国」という読み方にしてしまったのです。
邪馬台国を議論する前提として、本来、邪馬台国という読み方自体から精査しなければならないのかも知れません。
これらのように、邪馬台国の場所を見つけ出すには、その根拠になる魏志倭人伝自体に不確定要素が満載なのです。
そうは言っても、頼れるものは魏志倭人伝しかありません。やむを得ず、魏志倭人伝の内容に従いながら、邪馬台国の場所を見つけて行く事にします。
魏志倭人伝の内容は、大きく三つの章に分ける事ができます。
最初は、諸国連合国家である女王國に属する国々についてと、そこへの行路について。そして最終目的地が女王の都である邪馬台国となっています。
次に、倭人の風俗習慣について。体中に刺青を入れているとか、倭国の産物などが記されています。よく誤解されるのですが、この風俗習慣は倭人についてであって、邪馬台国を特定したものではありません。ここに記されている風俗習慣が一致する場所が邪馬台国だと言うことでは、決してありません。
最後に、倭国、特に女王國の政治情勢についてです。これは魏の国へ朝貢を行った事や、女王國と敵対している狗奴国、卑弥呼の死やお墓、宗女・壹與など、その後の状況などについて述べられています。
この中で、一般に最も関心が高いのは、邪馬台国までの行路ではないでしょうか? この内容は日本列島の位置関係とは必ずしも一致しない為に、様々な曲解がなされ、ありとあらゆる場所が邪馬台国の比定地として名乗りを上げています。それは、近畿地方や九州地方だけでなく、日本全国。いや、世界中にも及んでいます。また、九州地方の中だけでも、無数に候補地が名乗りを上げています。 これは九州各地の古代史家たちが、自分の都合の良いように、自分の住んでいる場所こそが邪馬台国である、と曲解している事によります。
いわゆる、我田引水が横行しているという訳です。
いかがでしたか?
魏志倭人伝は、いかようにも解釈できてしまう書物です。その為に、「オラが村の邪馬台国」とばかりに、各地の古代史家たちが血相を変えて自説をぶっているのが現状です。
今後このチャンネルでは、あくまでもフラットな視点から邪馬台国を見つめて行きます。畿内説に偏るわけでもなく、九州説に偏るわけでもありません。
その過程で、畿内説・九州説ともに可能性が無い、との結論に達するかも知れません。あらかじめ、ご了承下さい。