邪馬台国の候補地の少数派で、稀に見かけるのが阿波 (徳島) 説です。 農業の観点からすれば、一見して、阿波は大国には、成り得ません。九州・日向説と同じように、文献史学や後付け伝説から発生した説のようです。
とりあえず、検証に入ります。
この地図は、現代の徳島県です。吉野川による沖積層の平野が広がっており、「関西の台所」と呼ばれるくらい農業が盛んです。この平野が1800年前も同じ状況であれば、邪馬台国の候補地ナンバーワンになっていたでしょう。しかし、淡水湖跡の沖積平野はありません。
河川による沖積平野は、湿地帯、雑草地、ジャングルの過程を辿ってしまいますので、弥生時代には農業耕作はごく僅かしか出来ません。
6000年前の縄文海進時、徳島平野は全て海の底でした。それから徐々に海面の低下と吉野川の堆積物により、平地が広がって行きます。1800年前の邪馬台国の時代には、海岸線は現在よりも10キロほど内陸となりました。吉野川上流の平地となった土地は、数百年単位で放置された為、ほとんどがジャングルとなりました。弥生時代中期の水田稲作が始まった頃から湿地帯の手入れが始まり、海岸線に近い部分だけが農耕地となりました。これでは、邪馬台国のような当時の大国にはなれません。
なお、これは徳島平野に限った事ではありません。河川によって出来た平野は、すべてこの経過を辿り、弥生時代の大国にはなっていません。
阿波(徳島)説は、郷土愛を持った方が、書籍を発表したのが原因の様です。こういう説は、文献からの我田引水が目に余ります。九州・日向説と同じように、
○ 天照大神・卑弥呼の墓、といった古事記からの後付け伝説
○ 魏志倭人伝からは、麻・橘・丹など、阿波にとって都合の良い部分だけの拾い出し
○ 行路の曲解
などです。
阿波には、弥生時代末期の顕著な、墳墓・遺跡・出土品が無く、鉄器出土もほんの僅かです。
少数派の説は、やはり根拠が希薄でした。