弥生時代末期の超大国はどこか?
水田稲作農業の視点から、場所を特定しました。 越前・福井平野が、面積的にも、平野になった時期的にも、最も適合している事が分かりました。謎を解く鍵は巨大淡水湖をご参照下さい。
まず、淡水湖跡の沖積平野が適している理由を、再度確認します。淡水湖の湖底に栄養豊富な沖積層が平らに堆積します。湖の水を抜けば、平坦で水はけの悪い、最高の水田稲作地となります。しかも、密林を伐採する必要もありません。
これは、現代の福井平野の地図です。
一見すると、海岸への出口が広く、淡水湖だったとは思えません。
しかし詳しく調べると、海岸線に普通の地図では表しきれない砂礫層があったのです。
これにより、巨大な淡水湖が存在していました。
この淡水湖ができるまでを、時代ごとに示して行きます。まず6000年前の縄文海進時に、福井平野は全て海の底になりました。その時期に対馬海流によって砂礫が積み上がりました。縄文海進が終わった後も、この砂礫層で水がせき止められて、巨大な淡水湖となりました。この期間に湖底には、栄養豊富な沖積層が出来上がりました。そして弥生時代後期の2000年前ころから、淡水湖の水抜きが行われ、広大な水田稲作地帯が出現したのです。
この淡水湖ができるまでを、時代ごとに示して行きます。まず6000年前の縄文海進時に、福井平野は全て海の底になりました。その時期に対馬海流によって砂礫が積み上がりました。縄文海進が終わった後も、この砂礫層で水がせき止められて、巨大な淡水湖となりました。
この期間に湖底には、栄養豊富な沖積層が出来上がり。そして弥生時代後期の2000年前ころから、淡水湖の水抜きが行われ、広大な水田稲作地帯が出現したのです。
この地図は、現代の福井平野の標高図です。海岸線の砂礫層の高さが15mから20mですので、海抜15mの線を描いてみました。このラインが、弥生時代中期まで淡水湖だった推測されます。この広さは縦30km、横10kmの巨大なものです。近畿地方の古墳時代をもたらした奈良湖と河内湖を合わせた広さよりも広大です。
この事実だけで、福井平野(越前)が邪馬台国だったと、結論付けるつもりはありません。
ただ弥生時代末期に、越前が超大国だったのは間違いないという事です。