こんにちは、八俣遠呂智です。
近畿シリーズ総集編の2回目。前回の考古学的な視点からの考察では、弥生時代の畿内には大きな勢力は存在しなかった事が明確になりました。歴史学者の妄想やマスコミの印象操作によって、奈良県の纏向遺跡が高すぎるほど持ち上げられていますが、実際は大した出土品はありません。むしろ、琵琶湖沿岸にこそ大きな勢力があった可能性があります。
今回は、文献史学の視点から近畿地方を総括します。
近畿地方は、6世紀の飛鳥時代にヤマト王権が誕生した場所ですので、必然的に最も多くの文献史料があります。
日本で最も古い歴史書は、古事記や日本書紀とされています。これは邪馬台国よりも500年も後の時代、8世紀に成立したものです。もちろん記紀よりも前の時代にも歴史書は存在していました。6世紀~7世紀の聖徳太子の時代に成立した天皇記や国記、上宮記。7世紀後半に成立した帝紀や旧辞、などです。残念ながら、これらは全て滅失しており、その内容は分かっていません。
滅失した理由は、記紀編纂時の実力者・藤原氏一族の思惑が強く働いたからでしょう。
「歴史は勝者が書く」。それを地で行ったのが古事記であり、日本書紀だと言えます。
このように、記紀を「史実である」、として考察するには無理がありますが、他に手段が無いので仕方ありません。
「歴史書」ではなく、何らかの根拠を元に書かれた「歴史小説」として、参考程度に引用して行きます。
近畿地方と邪馬台国との関係のありそうな物語としては、
・天照大神
・神武東征
・倭迹迹日百襲姫
・神功皇后
などがあります。いずれも考古学的な根拠の無い、神話の中のお伽話です。
それでも、何らかの元ネタがあったとすれば? という視点でざっくりと見て行きましょう。
まず、邪馬台国・卑弥呼がモデルだったとする天照大神です。この中で、場所を特定する描写があるとすれば、天岩戸隠れです。これは、須佐之男命の乱暴な行いに怒った天照大神が岩戸の中に閉じこもってしまい、世の中が真っ暗になったというお伽話です。これを、皆既日食が元ネタだとする説があります。丁度、卑弥呼が亡くなった247年と248年の二回、日本列島で皆既日食が起こっているからです。
では実際に近畿地方で皆既日食が起こったのでしょうか?
アメリカ合衆国・NASAが計算した皆既日食の観測地域はこの地図のようになります。一回目の247年は、日本列島の他の場所ではどこも観測されていません。二回目の248年は、北陸地方と北関東でだけ観測されています。
このように、天照大神を卑弥呼だとした場合、近畿地方が邪馬台国だった可能性は無くなります。もちろん、北部九州の可能性もありません。北陸地方か北関東だけが、可能性として残ります。
神武東征も、記述された年代をそのまま信用すれば縄文時代になってしまいますので、お伽話でしかありません。
元ネタがあったとすれば、馬の繁殖適地である宮崎県・日向の国の豪族が近畿地方へやって来たお話、時代としてはせいぜい5世紀頃の話でしょう。
この中で近畿地方での最初の上陸地点は、北河内です。ここは、馬牧場があったとされる場所ですので、日向の国との強い関係性が見られます。一方で、記紀編纂時の実力者・藤原氏一族の元祖・中臣鎌足が眠る阿武山古墳が存在するのもこのエリアです。
どうやら神武東征は、藤原氏一族が日向の国からやって来たお話を美化して、天皇家の系譜へとすり替えた歴史小説のようですね?
倭迹迹日百襲姫は、第7代孝霊天皇の皇女です。もちろんお伽話の人物です。
邪馬台国畿内説支持者が、「彼女こそが卑弥呼である」、と主張しています。しかし、彼女はただの巫女さんであり卑弥呼のような国家権力者ではありませんので、この主張は瞬時に崩壊してしまいます。
それはさておき、彼女の墓は纏向遺跡の中にある箸墓古墳だとされています。
この古墳はそもそも、4世紀以降の土器が出土していますので、邪馬台国よりも100年以上も後のものです。ところが、古墳の一部の場所から新たに3世紀の土器が発見された事で、いつの間にやら3世紀の邪馬台国時代のものであると改定されてしまいました。これはいけません。年代推定は、最も新しい時代の土器を基準にしなければ矛盾が生じるからです。
箸墓古墳の年代推定は、恣意的解釈と言わざるを得ませんね?
これは、歴史学会の重鎮が御用学者であり畿内推しである事が最も大きな要因です。
文献史学のお伽話から湧いて来た願望を、考古学にまで反映させてしまった最悪のケースです。
神功皇后もまた、お伽話です。
第14代・仲哀天皇の皇后で、三韓征伐などを行った古代史最強の女傑で、卑弥呼がモデルである可能性が最も高い人物です。何より、神功皇后の章には魏志倭人伝から引用文が記されていますし、70年に渡って最高権力者として君臨していた様子が記されているからです。
また、時代的に一致することや、夫を早く亡くして独身だった事、武内宿祢という人物が補佐役だった事など、魏志倭人伝の卑弥呼の描写に共通する点も多く見られます。
彼女はお伽話の人物ではありますが、その系譜は実在した氏族です。息長氏という琵琶湖北東部、現在の米原や長浜あたりを地盤としていた氏族を祖先に持ちます。諱を、息長足姫尊といいます。
彼女が都としたのは角鹿笥飯宮、現在の福井県敦賀市です。魏志倭人伝には邪馬台国について、「女王之所都」とありますので、邪馬台国があったのは、敦賀だという事になりますね?
これらのように、文献史学上で近畿地方と邪馬台国を結ぶ接点と言えるのは、神功皇后の記述だけです。しかし、一般に「畿内」と呼ばれる奈良盆地や河内平野などではなく、琵琶湖の北岸や若狭湾に掛けての地域がその中心だという事になります。
残念ながら神功皇后も含めて、古事記や日本書紀に記されている初期の頃の人物たちは、実在性の確かではないお伽話でしかありません。これらの記述を持って、三世紀の邪馬台国の時代を語るのは無理があります。
では、いつからの記述からが実在性が確かなのでしょうか? それは記紀以外の複数の古文書に記載があったり、実在を証拠づける出土品があったりと、様々な根拠が存在する人物から、ということになります。
現在のところ、それは第26代天皇とされる継体天皇からです。具体的な内容は、以前の動画で示しましたのでご参照下さい。
日本書紀の上では、北陸地方・越前から招聘されて第26代天皇になったとされています。
彼の系譜はとても奇妙で、それ以前の天皇家の系譜からはほとんど断絶しています。直系血族ではなく、大きく外れた傍系血族なのです。第15代・応神天皇の五世孫、神功皇后の六世孫に当たります。
日本書紀の上では、先代の武烈天皇が異常な性癖の持主で子供がいなかった事や、雄略天皇の時代に多くの皇族を殺害してしまった事など、色々な理由が記されています。これはただの言い訳ですね? 単に王朝交代が起こったと見る方が自然でしょう。
文献史学の領域を離れてしまいますが、その当時の国力、すなわち農業生産力では、越前の国が畿内を圧倒的に上回っていました。強い国が弱い国を征服した、という単純な図式が描けるでしょう。王朝交代というよりも、むしろ継体天皇が、文明後進地域だった近畿地方を侵略して征服し、奈良盆地に初めてヤマト王権を誕生させた。と見るべきですね。
この継体天皇もまた、神功皇后と同じように琵琶湖北部地域と強い繋がりがあります。出生地が北西部の高島の地なのです。幼くして母親の出身地である越前に戻り、そこで大王になったとされています。
どうやら、琵琶湖北部、若狭湾、越前の国、丹後の国、あたりが一つの強力な勢力。すなわち魏志倭人伝に記されている女王國連合だった可能性が非常に高そうですね?
いかがでしたか?
古事記や日本書紀という歴史小説にも元ネタたあったとすれば、近畿地方の弥生時代は琵琶湖を中心に回っていたようですね? これは前回の動画で示しました考古学的な視点とも一致しています。記紀は飛鳥の地で書かれた書物ですので、どうしても奈良盆地が主役のお伽話になっていますが、そのあたりを冷静に見極めれば、弥生時代末期・邪馬台国の真の姿が浮かび上がって来るのではないでしょうか?
魏志倭人伝に記されている女王の都・邪馬台国と、そのライバル狗奴国。しょっちゅう争いが起こっていたようですが、その後どうなったのか? という疑問が湧いてきますよね?
これを、女王國が日本海勢力、狗奴国が近畿勢力とすれば、辻褄が合います。卑弥呼がいた時代、つまり神功皇后がいた時代に戦いが終結せずに、継体天皇の時代になってようやく終結したのですね。その主戦場は琵琶湖だった訳です。考古学的にも文献史学的にもこの地域での分断が見られますし、それに加えて琵琶湖沿岸地域は豊饒な天然の水田適地です。この地を巡って、古代に激しい戦闘が繰り広げられた様子が浮かんできます。
冷静に考えれば、古代の後進地域だった近畿地方へ、先進的な中国文明が入って来る窓口は、若狭湾から琵琶湖を通るルートでしたので、この地域がとても重要だった事は自明でしたね?
今回、近畿地方を改めて俯瞰して見て、改めて当然の勢力構図が見えてきた次第です。