弥生時代末期に出現した纏向遺跡は、「邪馬台国ではないか?」と注目されています。しかし、これまで鉄器の出土が無く、可能性は極めて低いです。
今回、纏向遺跡が邪馬台国ではなかった新たな理由を述べてまいります。前回は、纏向遺跡は近畿の淡水湖を開拓する窓口だったと推定しました。全国各地から豪族達が集まり、奈良湖の開拓を推し進めたのです。
これは、纏向遺跡から出土した土器の種類から推測される事です。
出土した土器は、奈良系だけでなく、東海、出雲、北陸、関東、吉備など、広い範囲に及んでいます。
しかしながら、出土した土器の内、85%は地元・奈良の土器です。残り15%の内訳は、東海系7%、出雲・北陸系3%などです。
ところが、九州系は全体の0.1%未満なのです。数千点の土器の内、九州系土器は、ほぼゼロという事です。
つまり、九州から人が来た形跡が無いのです。これほど九州と繋がりの無かった纏向遺跡が、邪馬台国と言えるのでしょうか?
上図のように纏向遺跡が邪馬台国だった場合、中国や朝鮮との窓口だった九州地方を通らなければなりません。九州を支配下に置き、人の交流が無ければそれは出来ません。九州系土器が無いということは、九州とは隔離されていた、という明確な証拠です。
畿内説の矛盾の決定的証拠が、また一つ増えましたね。
纏向遺跡には、鉄器の出土がありません。九州との交流がありません。
断言します。纏向遺跡は、邪馬台国とは全く関係ありません。
纏向遺跡に搬入された外来系土器については、正確さに欠ける情報が意図的に流されたり、変更されたりしていることが多いのが実態です。これは、何らかの圧力が纏向遺跡を意図的に邪馬台国にしようとしているとしか思えません。
胡散臭い遺跡ですよね。
纏向遺跡が邪馬台国でないにしても、その次の時代、すなわち古墳時代は近畿地方の黄金期となります。なぜ近畿が?・・・という疑問を解明して行きます。