畿内説を考える上で、纏向遺跡ばかりが注目されています。ところが、纏向遺跡の年代鑑定に不可解な点も多く、出土品から邪馬台国の確かな証拠は見つかっておりません。
広大な面積に巨大な宮殿があったという、マスコミ受けしやすい遺跡である事が原因のようです。
畿内説を唱えるならば、もう一つの有名な遺跡『唐子・鍵遺跡』も注目すべきでしょう。
この遺跡は、水没し、滅亡した集落です。
唐子・鍵遺跡は、この写真のように弥生時代の特徴的な建物が有名です。これは、この地で出土した土器に描かれていた建物の復元物です。唐子・鍵遺跡は、奈良盆地南部、現在の田原本町にありました。
上左の地図は、現在の奈良盆地南部です。唐子・鍵遺跡はこの位置です。邪馬台国時代の三世紀には、この場所は奈良湖の水の下でした。これは国土地理院の調査で、湖面の水位が調査されていますので、間違いないでしょう。この奈良湖は、時代によって水位の変異・変動があったようです。これは地形状、水の出口が、生駒山地・葛城山地に挟まれた狭い谷にあるのが原因です。ここが土砂崩れなどで塞がれると、盆地はすぐに淡水湖に戻ってしまうのです。
出土品は、翡翠、土器、銅鐸など多彩です。数量的に纏向遺跡を上回っています。また、農耕用の鋤や鍬の持ち手の木製工具、石包丁なども出土しています。生活感の無い纏向遺跡ではこういう出土品はありません。この遺跡は、弥生時代を通して何度も水没し、その度に何度も復興してきました。しかし、丁度、邪馬台国の時代に、完全にその姿を消しました。水没した邪馬台国、というロマンを感じさせる遺跡ですね。
また、奈良県には弥生時代の鉄器の出土はありません。この遺跡のように水没したなら、「鉄器は錆びて出土しない」という理屈も通用します。
出土品は、翡翠、土器、銅鐸など多彩です。数量的に纏向遺跡を上回っています。また、農耕用の鋤や鍬の持ち手の木製工具、石包丁なども出土しています。生活感の無い纏向遺跡ではこういう出土品はありません。この遺跡は、弥生時代を通して何度も水没し、その度に何度も復興してきました。しかし、丁度、邪馬台国の時代に、完全にその姿を消しました。水没した邪馬台国、というロマンを感じさせる遺跡ですね。
また、奈良県には弥生時代の鉄器の出土はありません。この遺跡のように水没したなら、「鉄器は錆びて出土しない」という理屈も通用します。
纏向遺跡は、唐子・鍵遺跡が水没した後の湖岸に造られました。奈良湖開拓の新たな窓口だったようです。しかし残念ながら、纏向遺跡には、鉄器の出土が無い、九州の土器が無い、という事実があります。出土品からだけでは、どちらの遺跡も邪馬台国と比定するのは、難しいでしょう。
唐子・鍵遺跡は、『水没した邪馬台国』というロマンをかんじさせてくれます。ただし、これより新しい纏向遺跡に、鉄器などが無い事から、邪馬台国と比定できません。邪馬台国ではなく『狗奴国』ではないでしょうか?