こんにちは、八俣遠呂智です。
山陽道・四国シリーズの8回目。四国における弥生時代の考古学的な考察です。
前回の動画で示しました通り、四国には中央構造線が走っている影響で水田適地が少ない上に、瀬戸内海という世界屈指の困難な海域で遮断されている為に、弥生時代には多くの人が住めない閑散とした地域でした。それを証明するように、弥生遺跡にも顕著なものがありません。
四国から発見されている弥生遺跡をいくつかピックアップしてみます。
愛媛県松山市の樽味四反地(たるみしたんじ)遺跡。
ここからは、3世紀後半頃の大型建物が3棟見つかっています。なかでも最大規模の2号大型建物は床面積160㎡を超える。同時期の西日本でも有数の規模で、松山平野を統括した首長の居館であると想定されています。
香川県三豊市の紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)。
弥生時代中期後半の高地性集落です。瀬戸内海に突き出た紫雲出山山頂にあり、絶好の眺望に恵まれていますので、瀬戸内海を監視する役割があったと考えられます。
徳島県阿南市の若杉山遺跡。
ここは、「水銀朱」あるいは「朱丹」と呼ばれる赤色顔料・辰砂が採掘されていた場所です。また、採掘していた坑道も見つかっています。弥生時代には、露天掘りが主流と考えられていましたが、ここでは坑道で採掘されていました。日本最古の坑道の可能性もあります。
四国の弥生遺跡の特徴として、土器類などの生活用具は大量に出土するものの、金属類や宝石類といった権力者が持つ「威信財」の出土が非常に少ない事です。
これは、古代国家の成立を考えれば当然の事です。日本列島の場合には、水田稲作という強力な人口扶養力を持つ穀物栽培が始まって人口爆発が起こり、一極集中型の国家と呼べる集合体が発生しました。ところが四国には水田稲作に適した土地が僅かしかなかった為に、海産物の狩猟や焼畑農業といった効率の悪い食料調達に依存していました。縄文時代から連綿と続いていた生活形態が、弥生時代になってもそのまま続いていた為に、国家という集合体は成立しなかったのです。そのために四国の弥生遺跡からは、権力者が持っていて然るべき「威信財」の出土が非常に少ないのです。
そんな中で、徳島県の若杉山遺跡から産出された朱丹と呼ばれる水銀朱の価値は高かった事は想像されます。
水銀朱は、赤色顔料としてだけでなく、薬品や防腐剤としての役割も果たしていました。弥生時代の墳丘墓の棺の中には、遺体が腐るのを防ぐ為に大量の水銀朱が撒かれています。それは古墳時代に入っても、同じように続いていました。
また、魏志倭人伝には、倭人たちの風俗習慣として、体中に朱丹を塗っていたと記されています。
「朱丹塗其身體」
「朱丹を以ってその身体に塗る」
また、倭国の中には朱丹が産出される事を意味する文言もあります。
「其山有丹」
「その山には丹有り」
これらのように四国は、紛れもなく倭国の一部だったでしょうし、卑弥呼への貢物として、四国から遠く離れた邪馬台国へ、朱丹を献上していたのかも知れませんね?
但し、朱丹の産地は徳島県に限った事ではありません。中央構造線が走る地域では水銀朱の鉱脈があります。近畿地方や九州地方東部です。また、地名に「丹生」という文字が残る地域では、必ず朱丹が産出します。
弥生時代の産出地に限って見てみると、三重県多気産の水銀朱が丹後半島の墳丘墓から検出されたり、中国・陝西省産の水銀朱が、島根県や福井県の墳丘墓から検出されたりと、日本列島だけでなく中国大陸をも含めた広い範囲で朱丹の交易が行われていますので、残念ながら四国が特別な存在ではありません。
一方、弥生墳丘墓では一ヶ所、個性的なものがあります。
徳島県鳴門市の萩原2号墓です。邪馬台国時代と重なる2世紀~3世紀頃に築造された直径20mの円墳です。
弥生時代の大型墳丘墓は、方墳や四隅突出型墳丘墓のような四角形が多く、円形の大型墳墓は珍しいのです。
規模としては、吉備の国の楯築遺跡には遠く及ばないものの、円墳に限って見ればその当時の最大規模です。また、石で木槨が囲われた珍しいタイプの墳丘墓です。残念ながら出土品は、ここでも威信財や朱丹はなく、形状だけの珍しさに留まっています。
これらのように、四国の邪馬台国時代には考古学的に目ぼしいものはありません。やはり、天然の水田適地の少なさから人口爆発が起こらず大きな勢力が発生しなかった事、瀬戸内海に隔離されている事、などが大きく影響していたのでしょう。
いかがでしたか?
邪馬台国徳島説というのをご存じですか?
徳島県の経済団体が音頭を取って、地元だけで盛り上がっているようです。
根拠は、30年前に古代史研究家が唱えた説です。
客観的に見て、残念ながらその可能性は無く、全国的な広がりはありません。
しかし羨ましいですね。徳島の人達はノリが良いです。
「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿保なら・・・」