魏志倭人伝の行路を逆方向に辿っています。前回までに、九州の上陸地点である末蘆国(松浦)の様子を考察してきました。今回は海を渡って、一大国と對海国に入ります。
航路や距離から、現代の壱岐が一大国、対馬が對海国と見て間違いないでしょう。共に玄界灘に浮かぶ小島ですが、弥生人が生活する上では、若干の違いがあったようです。魏志倭人伝の記述はかなり正確で、地学・農学・考古学の視点からも両者の差異がクッキリ描かれています。
壱岐と対馬の比較を通して、魏志倭人伝の正確さを証明して行きます。
この地図は、玄界灘を拡大したものです。壱岐と対馬が浮かんでおり、魏志倭人伝の行路の記述と一致している場所にあります。
狗邪韓国(くやかんこく)から1000里で對海国(つかいこく)、對海国から1000里で一大国(いたいこく)、一大国から1000里で末蘆国、という記述になっています。
一大国は「一支国」、對海国は「對馬国」の誤記であり、音韻的に一致するという研究者が多いようです。これは地理的にも遜色ないので、受け入れやすい曲解でしょう。
またこの地を治めていたのは、高官が卑狗(ヒコウ)、副官が卑奴母離(ヒドボリ)という、どちらも同じ役人だったとの記述があります。つまり、一大国・對海国の両地域は一つの国として扱われていたという事です。
この地図は、壱岐と対馬を同じ倍率で拡大したものです。
壱岐よりも対馬の方が遥かに大きいのですが、魏志倭人伝では、一大国が三百里四方、對海国が四百里四方となっています。大小関係こそ合っているものの、壱岐の大きさが実際よりも大きく記されています。壱岐の勢力が強く、イメージとして大きかったからかも知れません。
島の中の様子は、一大国が「竹、木、草むら、林が多い」、對海国が「山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のよう」となっており、どちらもほとんどが獣道だった様子が窺えますが、僅かながら違いがあります。それは山々の標高からの地形の違いです。壱岐では100メートル程度のなだらかな山々、対馬では三倍も高い300メートル級の険しい山々が連なっている事です。両者を比較すると、對海国にだけ「険しい山」があるという記述は、かなり正確と言えるでしょう。
一方、住んでいた人の数ですが、住居の数では一大国が三千戸、對海国が千戸となっていますので、一戸当たり四人住んでいたとして一大国で12,000人、對海国で4,000人となります。これも的を得た数値です。
一大国は面積は小さいながらも、南東部には淡水湖跡の天然の水田適地があります。海産物の収穫だけでなく、一定規模の稲作農業が行われており、多くの人口を賄えた事は想像に難くありません。ところが對海国は面積は大きいながらも、水田適地どころか、畑作栽培を行える場所もほとんどありません。島全体が急峻な山々で出来ていますので、食料のほとんどは海産物だったと推測されます。
農業の記述にもそれが表われています。一大国は、「いくらかの田地あり」とされていますが、對海国は「良田はなく海産物を食べて自活」とされています。
なお田んぼのあった一大国もそれだけで自給自足していたわけではありませんでした。両者ともに「南北市糴(してき)」という記述があり、九州や朝鮮半島から穀物を買い付けていたという意味が込められています。
この地域の弥生遺跡としては、一大国には「原の辻遺跡」「カラカミ遺跡」「車出遺跡(くるまでいせき)」などがあります。
このうち原の辻遺跡は、一大国の都だったと推定される大規模環濠集落跡です。
このエリアは、淡水湖跡の天然の水田適地ですので、弥生時代には島の中心地だった事は容易に想像が付きます。実際、水田遺構、水田稲作用の農耕具、そして竪穴住居址からはその当時の米も出土しています。出土品は中国の鏡や銭貨、朝鮮の土器など大陸系の物が多く、交易で栄えていたことが窺え、さらには日本最古の船着き場跡も見つかっています。
カラカミ遺跡は、原の辻遺跡に次ぐ規模ですが、農業の要素は乏しく、漁業や交易に専念していた集落であったと考えられています。この遺跡の最大の特徴は、日本最古の製鉄所が見つかった事です。一世紀から三世紀頃とされており、日本に於ける鉄の生産の歴史を書き換える遺跡です。ただし、現段階では「可能性」に留まっています。 いずれにしても弥生時代の鉄の輸入は、植民地だった朝鮮半島南部の任那(弁辰)からでしたので、この地でも製鉄が行われていた事に何ら不思議はないでしょう。
對海国には、三根遺跡(みねいせき)があります。弥生時代の大規模集落跡ではありますが、一大国に比べて個性はありません。島の面積の大きい対馬ではありますが、この地域の中心地は壱岐の方だったようです。農耕地が狭いという悪条件が遺跡の内容からも顕著に表れています。
魏志倭人伝に記されているこれら二つの国の様子は、弥生遺跡の視点からも正確だと言えるでしょう。両者を比較すると、面積的に狭くあまり目立たない壱岐島の方が、古代に於いては玄界灘を治める王族の中心地だったようです。ただし食料を九州や朝鮮半島に求めていた様子から、その立ち位置は不安定でした。末蘆国(松浦)と同じように女王国には属さず、ニュートラルな独立国ではあるものの、ほとんど価値の無い地域として扱われていたのではないでしょうか。
次回は、この玄界灘に浮かぶ島々を弥生人達はどのように航海していたか、魏からの使者はどのような船でやって来たのか、を推測します。