縄文と弥生の融合 博多湾沿岸

 宗像を旅立ち西へ向かうと、博多湾沿岸地域に入ります。多くの古代史研究者は、魏志倭人伝の奴国や不弥国を、この地域に比定しています。

 弥生遺跡の豊富さや地理的位置関係から、至極当然の解釈かと思われます。

ここは、あまりにも遺跡だらけ、出土品だらけですので、どこから手を付けてよいか分からなくなるくらい、豊富な弥生情報満載の地域です。

 今回は、取り合えず私の説の基本である「農業の視点」から博多湾を見つめ、縄文時代から弥生時代へのバトンが受け渡された様子を考察します。

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博多湾の水田適地

 この地図は、福岡平野を拡大したものです。

この平野には、室見川,那珂川,多々良川などの河川による扇状地で形成されています。砂質(さしつ)の水はけの良い土壌です。

 また、弥生時代の海岸線は現在よりもかなり南側となっており、博多駅あたりは海の底だったようです。

 農業視点からは、砂で出来た水はけの良い平野ですので、当然ながら水田稲作には適していません。弥生時代には、主に陸稲・麦・稗・粟などの収穫効率の悪い畑作栽培は行われていたようです。もちろん、小規模の水田遺構は多数発見されています。但しそれらは、板付遺跡のように、谷底低地や三日月湖跡地という限られた水田適地でした。日本最古級の水田遺構があるからと言って、この地が水田稲作に適した土地だった訳ではありません。

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海人族 阿曇氏

 海の方に目を転じると、博多湾に面する沿岸地域は、弓状の砂丘が形成されされています。北部には、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)が出土した事で有名な、志賀島があります。現在は砂丘による陸続きの半島になっていますが、弥生時代にはその名の通り「島」だったようです。

 また、玄海島や能古島(のこのしま)など幾つかの島々もあります。これらは、以前に紹介しました沖ノ島と同じ様に、海人族たちの要衝あるいは宝物を隠しておく場所として利用されていたようです。

  日本書紀には、海人族・阿曇氏が志賀島を拠点としていた事になっています。安曇氏については謎が多いのですが、以前の動画で概要を考察していますので、ご参照下さい。

 博多湾地域には、縄文時代より多くの遺跡があり、漁業を生業とした縄文人、畑作農業を生業とした縄文人の両者がこの地に住んでいました。その内、漁業を生業とした縄文人達が、漁業の延長線上で朝鮮半島などとの海運交易も行っていたのでしょう。 

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博多湾の歴史

  博多湾地域は、縄文時代と弥生時代との接合点という位置づけが適当だと思います。

元々、狩猟採集民族だった縄文人は、魚を追って海を移動したり、陸地での野生動物の狩猟、沿岸部での貝類採集、陸での木の実採集などで生計を立てていました。

そんな縄文人たちが農業を行う事になったのは、3500年前頃からです。早良平野(さわらへいや)にある縄文集落の四箇遺跡(しかいせき)や、青森県の三内丸山遺跡などがこれに当たります。

当時は焼畑農業で、麦・稗・粟などを栽培してたと見られます。

また、同じ時期に陸稲も伝来し、畑作による米作りも始まっています。

 よく知られているように、畑作物には連作障害がある上に、病害虫の発生も多く、安定した食料源にはならなかったでしょう。それでも、「狩猟」という極端に不安定な食料調達よりはまだマシで、畑作農業文化が広がったと考えられます。

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博多湾での融合

 そこへ現れたのが、中国・長江流域から流れて来た人々です。彼らは水田稲作の文化を持っていました。

 縄文人と水田稲作との関係は、以前の動画「水稲伝来 縄文人との融合」で考察しておりますのでご参照下さい。

 福岡平野という、縄文人が畑作農業を始めていた場所だったからこそ、水田稲作という最も効率性の高い農業が受け入れられたのでしょう。時期的には、2900年前頃の佐賀県の菜畑遺跡が最も古い水田遺構とされています。福岡平野では、同じ時期の那珂遺跡(なかいせき)や、雀居遺跡(ささいいせき)において、遺構こそ発見されていないものの、水田稲作の道具類が発見されています。

 そして、2600年前頃の集落跡の板付遺跡からは、水田遺構が発見されています。

残念な事に、玄界灘沿岸地域の水田適地は限られており、大規模な水田稲作が行える場所はありませんでした。

 日本に於ける水田稲作の原型が形作られたのは、さらに時代を下って2300年前頃の直方平野に於いてです。これについても以前の動画で考察していますのでご参照下さい。

 畑作縄文人と稲作弥生人との融合が始まった場所が福岡平野でした。

 玄界灘沿岸の僅かな土地から始まった水田稲作は、その後、水田適地の直方平野に中心が移りました。そして、遠賀川式土器と共に弥生稲作文化が確立されました。

 福岡平野 → 試作工場

 直方平野 → 量産工場

とも言える位置づけです。

 ここは、海人族の安曇氏や宗像氏という縄文人の流れを組む一族の拠点でもあったので、日本列島各地へ一気に水田稲作が広がって行ったのでしょう。