邪馬台国・宇佐説を検証するに当たり、前回は、
・農業の視点
・考古学の視点
という、古代国家成立の基本から考察しました。
残念ながら、豊前の国に超大国が出現できるだけの農業生産はなく、弥生遺跡も価値のあるものはほとんどありませんでした。
宇佐説の根拠は、
・文献史学
・神社伝承
という情緒的な理由と、邪馬台国から500年後の宇佐神宮のポジションです。
今回は、これらの根拠の詳細を検証し、そこから見えてくる「藤原氏一族」の朝廷での影響力を推察します。
まず、文献史学の視点から宇佐神宮について語る前に、歴史書についての普遍的な大前提を再確認します。
いつの時代も、どこの国でも「歴史は勝者によって書かれる」という常識です。
古事記や日本書紀が書かれた奈良時代は、藤原氏一族が頂点に上り詰めた時代です。
飛鳥時代に壬申の乱などで蘇我氏一族を滅ぼし、それまでに書き溜められた歴史書を焼失させ、藤原氏の監修の下で新たに書かれた歴史書が、古事記や日本書紀です。従いまして、記紀を読み解く場合には、内容をそっくりそのまま信じてしまうのは愚かな事です。背後に藤原氏の影を強く意識しながら読み進めなければなりません。
なお、時代や登場人物にも矛盾が非常に多くありますが、ここでは詳細を控えます。
古事記についてです。全三巻から成り立っており、上巻には神話が、中巻と下巻には天皇記が記されています。
中巻からの天皇記には、
「神武天皇⇒応神天皇」
までの話が記されています。これは、まさに宇佐の地に関係する人物です。
では、神武天皇による神武東征と、応神天皇が関係する熊襲征伐、この二点についての概要を示します。
神武東征は、磐余彦尊(いわれびこのすめらみこと)という神が日向の国を旅立ち、初代の天皇になったという説話です。九州の東海岸を北上した後、瀬戸内海から紀伊半島を回って、奈良盆地を征服した事になっています。
九州での行路は、日向の国から豊前の宇沙に逗留し、そこで接待を受け、さらに筑前の岡田宮(おかだぐう)に一年間逗留しています。そこから瀬戸内海を東へ向かって航海して行きます。
時代としては、仮に年代が正しいとすると、紀元前七世紀となってしまいます。これではあまりにも古すぎるので、弥生時代末期頃の出来事と曲解する学者が多いようです。いずれにしても所詮は文献史学ですので、我田引水でどうにでも解釈できます。
歴史の順序としては、上巻の神話では、
「天岩戸⇒ヤマタノオロチ神話⇒大国主の国造り・国譲り⇒天孫降臨」
となっており、それに続く中巻の冒頭に 「神武東征」の話が始まっています。
古事記に記された内容が時代順に記されているとすると、上巻の神話は一世紀~五世紀、中巻の天皇記は五世紀よりも後の時代となります。
これは、高志の国が古代出雲を植民地化していた時期が、考古学的に一世紀~三世紀ですので、これを基準にしています。すると、ヤマタノオロチ神話が四世紀、大国主の国造り・国譲りが五世紀頃となりますので、神武東征は五世紀以降の話です。
私は、神武東征という天皇記は、実は「藤原氏一族の東遷」だったと思っています。
六世紀の近畿地方の大革命の時代、すなわち邪馬台国の男大迹王が近畿地方を征服した時代に、九州から援軍として駆け付けた豪族の一つが、藤原氏一族だったのです。その後、蘇我氏一族を滅ぼし、朝廷内の権力抗争に勝利して、奈良時代に最高位に上り詰めました。つまり藤原氏こそが、歴史を改竄した張本人です。
日向の国から豊前の国あたりを地盤としていた豪族が藤原氏だったからこそ、記紀の中では神々がその地から現れたとしたのです。
このような経緯から宇佐神宮の二之御殿には、天照大御神とみられる比売大神 (ひめのおおかみ)が祭られるようになったのです。
なお、藤原氏・中臣氏の出自については、鹿島神宮の宮司説、京都山科の宮司説など、諸説が記紀に記されています。一つはっきりしている事は、奈良時代に藤原不比等(ふじわらのふひと)によって、朝廷内での実権を握り、その後1000年以上に渡ってその地位に居座り続けたという事実です。
奈良時代はまさに、藤原不比等を筆頭とする藤原氏一族の勃興期です。
藤原氏が九州出身だった事は、奈良時代の朝廷の重要決定に、宇佐神宮の神託を受けている事からも、分かります。
藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)の戦勝祈願、
道鏡事件と呼ばれる皇位継承に口出しした事件、
東大寺造営の支援を宇佐神宮が買って出た事、
などの重要事項に、宇佐神宮が影響力を行使しています。これは、古来より神社の頂点とされる伊勢神宮をも凌ぐ勢いでした。
記紀に記されている通り、天皇家のご祖先様が九州だとすれば、なぜ奈良時代なってから突然、宇佐神宮の影響力が増したのでしょうか。弥生時代から継続的に、宇佐神宮を崇拝していた筈が、奈良時代よりも前には、何の影響力も無かったのです。藤原氏が朝廷のトップに上り詰めてから、参拝が始まっているのです。
奈良時代の宇佐神宮詣では、藤原氏一族による朝廷支配の流れの一つ、とみれば矛盾は無いでしょう。一族の故郷である豊前の国・宇佐神宮に参拝していたのは、至極当然という事です。
次に熊襲征伐です。熊襲は、九州南部に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々の事です。第12代景行天皇(けいこうてんのう)から征伐が始まり、その息子である日本武尊が、九州全域で活躍した様子が記紀に描かれています。その中で、豊前の国・宇佐にも立ち寄っています。
また、日本武尊の息子である第14代仲哀天皇と神功皇后も熊襲征伐を行っています。特に神功皇后の武勇伝は有名です。神功皇后は身重ながらも、熊襲征伐の後に朝鮮半島に渡って、三韓征伐を行い、再び九州に戻って来てから赤ちゃんを産みました。この赤ちゃんが、宇佐神宮の主祭神である第15代応神天皇です。
記紀の中では、宇佐神宮と熊襲征伐の関わりはあまり多くはありません。神功皇后が応神天皇を生んだ後に、ちょっとだけ立ち寄った程度の記載しかありません。その事から、かなり後の時代になって、祭神として祭り上げられたのでしょう。社伝では六世紀頃の神話が語られていますが、所詮は伝承ですので、他の多くの神社と同じように、古事記や日本書紀が書かれた後に、無理やりこじつけた後付け伝承だと思います。
そもそも、古事記や日本書紀は、奈良時代に全国各地の言い伝えを寄せ集めて神話にしていますので、時代や場所や登場人物に矛盾が多い歴史書です。
宇佐神宮についても、奈良時代の権力者・藤原氏への忖度から、記紀において弥生時代末期の英雄たちが詣でた場所として書かれた可能性が大きいのです。
これらの事から、私は宇佐神宮は「藤原氏の故郷」であって「天皇家の故郷」ではない、と推測します。
なお、神功皇后の熊襲征伐・三韓征伐には、元になる実話があったと考えています。以前の動画、「三韓征伐は実話だった」にて考察していますので、ご参照下さい。
次回は、北部九州を豊前国から筑前国に入ります。