博多湾から御笠川を遡り、大宰府を越えると筑紫平野に入ります。ここは、中央を流れる筑後川と、その支流群によって作られた平野です。
内陸部は、現代でこそ広大な農耕地が広がっていますが、弥生時代には木々の生い茂る密林地帯で、水田稲作に適した土地は限られていました。当然ながら農業生産高は小さく、大国が出現出来る下地はありませんでした。
今回は、この地域の中心である甘木・朝倉エリアに焦点を当て、特徴的な弥生遺跡を元に、当時の様子を具体的に探って行きます。
この地図は、筑紫平野を拡大したものです。
今回は、内陸部の筑後川水系中流域に焦点を当てます。
ここは現在の行政区分では、福岡県小郡市(おごおりし)、朝倉市、うきは市の北部、久留米市の西部、佐賀県鳥栖市などから成っています。
このうち朝倉市は、かつては甘木市という名称でした。2006年に朝倉町(あさくらまち)および杷木町(はきまち)と合併して出来た場所で、現在でも一般に、甘木朝倉地域と呼ばれています。
邪馬台国・九州説には幾つもの比定地がありますが、この甘木朝倉は、多くの賛同者を集めている場所です。ちなみに、私も以前は甘木朝倉説を支持していました。
この地域は、河川の堆積による沖積平野ですので、弥生時代には密林地帯でした。農業生産はあまり多くはなく、大きな国が存在していた可能性は非常に低いでしょう。これは、前回の動画でも指摘しました通り、一旦密林となってしまった場所を開墾するのは、古代の技術では不可能だからです。古代に限らず、江戸時代になってさえも開墾は進んでいなかった事実が、旧国郡別石高帳から明らかになっています。
水田に適した土地が限られていた地域ですので、弥生時代には小さな水田適地ごとに小さな国が成立するという、林立状態だったようです。
この筑紫平野の状況を端的に表しているのが平塚川添遺跡です。この遺跡は、1990年に朝倉市甘木地域で発見された多重環濠に囲まれた大規模集落です。
最も特徴的なのは、低湿地に拓かれた集落であるという事です。普通の弥生集落は、小高い丘陵地に造られた高地性集落がほとんどですので極めて珍しいケースです。福岡平野の安徳台遺跡や須玖岡本遺跡はもちろんの事、同じ筑紫平野の吉野ヶ里遺跡でも山の裾野の丘陵地に集落が形成されているのです。
これは、弥生時代の治水技術では当然だったのでしょう。洪水被害を考えれば、低い土地に住居を構えるよりは、安全な高台に棲む方が理に適っています。
もちろんこの平塚川添遺跡でも、住居や穀物倉庫は比較的高い土地にあります。ただし、全体を俯瞰すると、べったりとした平坦な土地に集落が形成されているのです。
これは、この地域の農耕地が三日月湖跡や谷底低地のような限られた土地しかなかった事との整合性が取れます。
自然の作用によって形成された水田適地に、集落が発生したという典型的な事例です。
平塚川添遺跡の遺構としては、17ヘクタールの多重の環濠、竪穴式住居跡300軒、掘立柱建物跡100軒が確認されています。出土品としては、生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具(ぎょぐ)などの木製品が出土しています。ただし、鉄の出土はありません。
これは天然の水田適地では開墾の必要が無く、必ずしも鉄器が必要だった訳ではない事との整合性が取れます。同じように水田適地である直方平野からの鉄器出土が少ない事の理由を、以前の動画において考察しておりますので、ご参照下さい。
なお、この遺跡からは水田遺構は発見されておりませんが、米粒と稲作用の農具の出土はありますので、確実に米作りはなされていたと推測されます。
筑後川水系中流域には、この平塚川添遺跡のような集落が点在していたと考えられます。密林地帯でありながらも、自然の作用によって生まれた水田適地を見つけては稲作農業を営み、小さな国家が幾つも生まれて行きました。
魏志倭人伝に記されている「倭国大乱」は、この地の小国群が、水の利権争いのような小競り合いをしていた姿なのでしょう。
次回は、甘木・朝倉地域全体の弥生遺跡群について調査して行きます。