直方平野から西へ進むと、現在の福岡県宗像市に至ります。ここは、2017年にユネスコの世界遺産に登録された、
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
のある地域です。
この遺跡群は、4世紀頃から現代まで継承されている固有の信仰・祭祀があり、多彩な出土品がある事で有名です。また、文献史学上の海人族・宗像氏との整合性も取れる貴重な場所です。
今回は、この地域の概要と、文献に登場する宗像氏を考察します。
直方平野を旅立ち西へ向かうと、わずか10キロで宗像に到着します。
ここには、宗像大社があり、日本各地に7000あまりある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神(むなかたさんじょしん)を祀る神社の総本社です。神宝として古代祭祀の国宝を多数有しています。
宗像大社は総社である辺津宮(へつみや)と、筑前大島の中津宮(なかつみや)、沖ノ島の沖津宮(おきつみや)の三社の総称です。
地図上で辺津宮から11km離れた中津宮、さらに49km離れた沖津宮を線で結ぶと、その直線は145km離れた朝鮮半島釜山へと繋がります。古代から中国大陸と朝鮮半島の政治、経済、文化の海上路でした。現代でも海上・交通安全の神として、信仰されています。
宗像大社はあまりにも有名なので、説明はこの程度にして、この地域の特徴を示して行きます。
この地図は宗像市を拡大したものです。
ここは、玄界灘に面した沿岸部と、内陸部の盆地から成っています。どちらも、釣川という河川に沿って開けています。内陸部の盆地は、四塚連山(よつつかれんざん)や許斐山(このみやま)などの山々に囲まれていますが、標高は低く、海抜10メートル以内に収まってしまう平地です。
この宗像地域の沿岸部や盆地も、直方平野をはじめとする日本海側各地の平野と同じように、縄文海進の後に湖や湿地帯となった沖積平野です。
7000年前の海進時には、ほぼ全てが海の底になりました。その時代に、玄界灘を流れる対馬海流によって水の出口が塞がれました、弥生時代には汽水湖、あるいは海水だけの湾のような地形だったようです。
農業の視点からは、弥生時代から古墳時代を通して、天然の水田に適した土地は僅かでしたので、大きな勢力が存在できる下地はありませんでした。
しかし、海洋民族の視点からは、海が内陸部にまで入り込んだ「湾」がありますので、港にするには絶好の地形でした。海人族・宗像氏がここを拠点にしたのは、理に適います。
また、対馬海峡を渡る航海ルートでも理に適います。
魏志倭人伝では、朝鮮半島南部の狗邪韓国(くやかんこく)から北部九州に向かう場合、対馬→壱岐島→松浦ルートが使われています。しかし、沖ノ島→筑前大島→宗像ルートも同じように、あるいはそれ以上に頻繁に使われていたと想像します。
それは一つには、朝鮮半島から宗像までの直線上に、沖ノ島や筑前大島が並んでいる事。そしてもう一つは、この海域を流れる対馬海流の流速が速い事です。この海域は玄界灘と呼ばれている通り、航海の難しい海で、時速5キロ以上のスピードで西から東へ流されてしまいます。対馬から壱岐島へ向かった船が沖ノ島へ流されたり、壱岐島から松浦へ向かった船が筑前大島へと流されたりと、アクシデントが起こった際の、セーフティネットの役割も果たしていたのかも知れません。
次に、文献史学の視点から宗像を見てみます。
記紀の中では、宗像三女神(むなかたさんじょしん)の神話や、神功皇后の三韓征伐、雄略天皇の新羅遠征、継体天皇の磐井の乱鎮圧などの記述で、数多く見られます。
また、この地域の伝承によると、海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配していたとされています。但し、そうするとすぐ近くの博多湾・志賀島を拠点としていた海人族・安曇氏とのバッティングが起こってしまいます。
これらは、あくまでも根拠の希薄な文献史学や伝承ですので、参考程度に見ておきましょう。
なお日本書紀によると、宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、まず豊前の御許山(おもとさん)に降臨し宗像の島々に遷座されたとあります。以前の動画で紹介しました宇佐神宮の本殿二之御殿に祀られている比売大神は、三女神だとされています。この辺も矛盾が多いですね。
宗像を語る上では、安曇氏、海部氏など多く海人族について探究する必要があります。現在のところ様々な仮説がありますが、研究は進んでいないのが実態のようです。
私のこれまでの考察から、海人族は単純に縄文人の末裔だったと見るのが自然に思えますので、今後、海人族に絞って特集を組みたいと思います。
次回は、発掘された遺跡に焦点を当てて、宗像を考察します。