水稲伝来 縄文人との融合

 直方平野は、日本列島で最初に水田稲作が始まったとされています。但し、近年の発掘調査で更に古い水田跡も見つかっています。

 それでも直方平野が水田発祥の地という見解に揺らぎはありません。それは、単に水田跡だけでなく、

  ・遠賀川式土器の大量出土

  ・一定規模の水田地域

  ・石包丁、石斧などの農耕具

という発見もあるからです。これは水田稲作が定着し、日本列島全体に同じスタイルで広がりを見せた事に重要な意味があるのです。

 今回は、中国大陸から水田稲作が伝来した経緯と、直方平野に日本で最初に水田が根付いたと言われる理由について考察します。

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縄文人

 紀元前三世紀の日本列島には、縄文人が住んでいました。元々東南アジア系の海洋民族だった彼らは、丸木舟を巧みに操る海人族でしたので、その支配地域は朝鮮半島を含む環日本海地域にまで及んでいました。また、奇抜なデザインの土器、土偶、そして玉造りを行うという、世界最先端の文明を持った人々でした。しかし彼らの食料は、海産物、木の実、畑作物などの、収穫量の不安定なものでした。畑作農業は、陸稲、麦、稗、粟などの生産効率が悪く、栄養価の低い作物です。その為人口は少なく、日本列島全体でも五万人~十万人程度だったと推測されています。

  そこへ現れたのが、水田稲作文化を持った中国・長江流域からの人々です。

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春秋戦国時代

 長江流域からの人々は、なぜ日本列島にやって来たのでしょうか。

 中国大陸では、紀元前五世紀頃まで長江流域に「呉」や「越」という国がありました。しかし時は、春秋戦国時代という戦乱の時代でしたので、滅亡してしまいました。この時期に、ボートピープルとなった人々が、日本列島へ水田稲作文化を伝えたのではないか、とする説が多数派のようです。

 もちろん、これも一つの有力な説ですが、単に、地域的な小競り合いで、追い出された豪族の一部、だったのかも知れません。

 彼らはおそらく、中国大陸のほかの地域へ移住しようとしていたのでしょう。ところが、航海に失敗して漂流してしまったのです。そもそも長江流域の農耕民族ですので、海洋民族のように上手に船の操縦は出来なかったと想像します。

 いずれにしても彼らは、最初から日本列島を目指してやって来たのではなく、不運にも黒潮や対馬海流に流されて、たまたま流れ着いてしまったのだ、と思います。なぜなら、その当時は日本という島国が東の方角に存在している事すら、中国では知られていなかったのですから。

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多くは海の藻屑になった

 日本列島に流れ着いた長江の人々は、北部九州にピンポイントで流れ着いた訳ではなかったでしょう。ある者は九州南部地域に、ある者は四国地域に、またある者は近畿・東海地域に流れ着きました。しかし漂流者たちのほとんどは、海の藻屑として消え去ってしまったと思います。

 また時代を特定できるものではなく、紀元前七世紀~紀元前三世紀頃の広い範囲で、日本列島に漂着したと考えられます。

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直方平野から日本全国へ

 命からがら、なんとか日本に辿り着いた長江の人々ですが、元々列島を支配していた縄文人たちと融和出来なかった場合もあったでしょう。殺害されてしまった者や、山間部の高地性集落で細々と生き延びた者など、様々なケースがあったと思います。

 そんな中で、北部九州に辿り着いた中の、ほんの一部の集団が縄文人と融和しました。わずか数家族の渡来人たちが、弥生人の祖先だったのです。彼らは、高地性集落ではなく、水田稲作に適した平地での農業を許されました。やがて、縄文人達も水田稲作による米の生産の優位性を理解して、得意の海洋航海術を利用して、日本列島全域に稲作文化を広げて行ったのです。

 そのプロトタイプとも言える水田稲作地帯が、「遠賀川式土器」を有する直方平野だったのです。

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最古の水田遺構

 北部九州では、直方平野よりも古い水田が発見されています。

佐賀県唐津市の菜畑遺跡(なばたけいせき)や、福岡県福岡市の板付遺跡(いたづけいせき)などです。

 しかしながら、これらの水田遺跡は、扇状地エリアの中の僅かな沖積層の土地ですので、大規模水田ではありません。また、直方平野のように、遠賀川式土器という新型の土器の出土もありません。

 一定規模の水田稲作が根付き、縄文土器から弥生土器へと進化したという意味で、直方平野の水田地帯が日本で最初と言えるのではないでしょうか。

 また、直方平野に縄文時代から存在していた湖の周辺には、数多くの縄文遺跡が発見されています。それらと重なるように水田跡や遠賀川式土器の出土があります。まさに、水田稲作文化が縄文文化と融合した場所が直方平野という事です。

 中国・長江流域から北部九州に辿り着いた集団は、近親相姦で血が濃くなり、縄文人達とも交わる事で新たな人種・弥生人が誕生しました。そして水田稲作という、安定した食料確保によって日本列島全域に爆発的な人口増加をもたらしました。そんな中で、最も大規模水田に適した場所こそが、弥生時代末期の超大国・邪馬台国である、というのが私の説の基本です。

 それは、直方平野でも筑紫平野でも奈良盆地でもない、ある場所でした。

 次回は、弥生時代初期の基準土器である遠賀川式土器の特徴や、日本列島全体への広がりを考察します。