記紀における北部九州の扱いは、非常に明確です。
博多湾を中心とした玄界灘沿岸地域が、大和王権と結びついた勢力。
筑紫平野地域が、大和王権と反目する抵抗勢力。という位置づけです。
景行天皇、神功皇后、継体天皇と、それぞれの時代で、常に反乱を起こしていたのが筑紫平野の勢力です。
また、魏志倭人伝の邪馬台国へのルートを素直に読み解くと、不彌國までの行路は玄界灘沿岸地域となりますので、
ここでも筑紫平野は「蚊帳の外」という扱いです。
今回は、文献史学の視点から北部九州を総括します。
記紀に記されている北部九州は、熊襲征伐と磐井の乱に多く見られます。
熊襲征伐は、第十二代景行天皇から始まり、日本武尊、神功皇后へと続きます。
また、磐井の乱は第二十六代継体天皇の時代です。
どちらも中央政権である大和朝廷の勢力と、抵抗勢力である九州の勢力との闘いとして描かれています。
熊襲征伐の時代は、三世紀~五世紀頃とされています。景行天皇や日本武尊の実在性は不確実ですが、神功皇后は、卑弥呼、あるいは卑弥呼の宗女・壱与をモデルとした可能性が高い人物です。
神功皇后は、越前・敦賀に拠点を置いていた女傑で、九州・熊襲の反乱を征伐した後、朝鮮半島に渡って三韓征伐を行ったとされています。
九州では、博多湾地域に主力部隊を置いて、筑紫平野で起こった反乱を鎮圧しています。まず、甘木朝倉の豪族・羽白熊鷲(はじろくまわし)の反乱、さらには山門の女酋長「土蜘蛛」 の反乱を征伐しました。
筑紫平野は地政学上、小国が林立していた地域ですので、魏志倭人伝に記されている「倭国大乱」が、この熊襲征伐のモデルとすれば、整合性が取れる事件と言えます。
一方、継体天皇の時代に起こった磐井の乱は、六世紀の出来事です。神話などではなく、実際に起こった戦争だったとされています。
そもそも継体天皇は、実在する最も古い天皇ですし、筑紫の豪族・磐井の墓も実在していますので、信憑性の高い事件と言えます。
磐井氏は、筑紫平野の八女・久留米という当時の筑後川下流域を拠点にしていました。天然の水田適地でしたので、強力な豪族が出現する下地があった場所です。
記紀によれば、朝鮮半島の新羅と手を結んだとされていますので、玄界灘沿岸地域をも支配下に置いていた事も推測されます。
古文書にこの反乱を鎮圧したルートは記されていませんので、磐井の勢力範囲は分かりませんが、博多湾を含む北部九州全域にまで及んでいたのかもしれません。いわば九州が独立国となっていたことも考えられます。
魏志倭人伝においても、倭国・日本の主要勢力は、玄界灘沿岸地域だった事が窺えます。
朝鮮半島から対馬、壱岐島と海を渡ったあと、初めて九州に上陸する地点は佐賀県の旧松浦郡の伊万里でした。この地は末蘆国と記述され、倭国の主力である女王國には属していない、いわば緩衝地域のような場所です。魏からの使者は博多湾や唐津湾に直接上陸する事は許されなかったのでしょう。
末蘆国からは背振山地という険しい山道を歩かされ、ようやく女王國の入り口の伊都国、現在の福岡県糸島市に入ります。さらに奴国に入ります。ここは金印が出土していますので、博多湾沿岸地域で間違いないでしょう。魏志倭人伝にも、このエリアで最も人口が多い国であるとの記載もあります。その次に入る国・不彌國は、宗像市エリアです。ここは、古代の海人族の拠点ですので、その後の水行20日で投馬国へ向かう船の移動も、辻褄が合います。また、すぐ近くの直方平野には、遠賀川式土器があります。これは弥生時代の標準土器で、水田稲作文化と共に日本列島全域に広がった事を考えると、宗像のすぐ近くが直方平野であるもことも、倭人伝の記述の正確さを如実に物語っています。
このように、三国志という中国の歴史書においても、博多湾を中心とする玄界灘沿岸地域が、倭国・日本の主流で、女王國の西の端っこだった事が分かります。また、倭国大乱の記述もありますが、これは筑紫平野に林立していた小国同士の小競り合いだとすれば、筋が通ります。
以上の様に、古代の北部九州の状況を文献史学から眺めてみた場合、考古学的な発掘資料からの考察と同じような勢力分布が考えられます。
まず、博多湾を中心とする玄界灘沿岸地域は、中心的な役割を果たしていた勢力。具体的には弥生時代の女王國です。勢力範囲は、魏志倭人伝に「女王國に属す」と記されている伊都国から東の地域です。この地から女王が都とした邪馬台国・高志の国までの広大な領域が勢力範囲でした。また、倭人伝に記されている「帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述がありますが、九州は女王國の西の端っこですので、ピッタリこの距離と一致します。
筑紫平野は小さな国々が林立していた地域です。倭人伝では「倭国大乱」を引き起こした小国集団、記紀の中では、甘木朝倉の羽白熊鷲(はじろくまわし)や山門の女酋長・土蜘蛛がこれに当たります。六世紀の継体朝の時代の反乱、筑紫磐井勢力は八女や久留米のエリアでした。
佐賀県や長崎県の旧松浦郡のエリアは、朝鮮半島からやってくる外国人居留地のような緩衝地帯です。倭人伝の末蘆国がこれに当たります。また、六世紀の筑紫磐井の時代には、筑紫平野の勢力がこの地域を通して朝鮮半島の新羅と同盟を結んでいたと考えられます。
これらのように、農業の視点から出発して、考古学、文献史学を追って行くと、古代の北部九州の勢力図は理にかなった形が見えてきます。
今回で北部九州シリーズは一旦休止します。多くの考古学資料、文献史学資料のある地域ですので、わずか38回の動画では描写しきれない魅力的な地域です。
私も以前は邪馬台国・九州説を支持していましたので、改めて北部九州の魅力を実感しました。現在でも市井の古代史研究家の多くが九州説を支持するのも頷けます。しかし残念ながら農業の視点からは、私は落第点を与えざるを得ませんでした。今後は、「北部九州に邪馬台国は無かった」という、さらなる論陣を張っていくつもりです。
次回からは、九州の中南部の弥生時代に焦点を当てて、邪馬台国を考察して行きます。