卑弥呼の墓? 祇園山古墳

 古代の有明海沿岸地域には、山門の女酋長・土蜘蛛、八女の筑紫君磐井という豪族が出現しました。また、日本書紀に登場する水沼氏という豪族もこの地域で、久留米が地元だったとする説があります。

 豊かな天然の水田適地だった場所ですので、邪馬台国の有力な候補地となる下地は十分にあったでしょう。

今回は、久留米エリアに焦点を絞って、弥生遺跡や卑弥呼の墓と比定される祇園山古墳、そして水沼氏について考察します。

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久留米・八女エリア

 この地図は、久留米・八女を中心とした筑紫平野です。

このエリアの主な弥生遺跡をピックアップします。

 八女市新庄にある六反田遺跡(ろくたんだいせき)。弥生時代中期から後期にかけての密度の高い集落群及び甕棺墓群が発見されています。

 八女市室岡の亀ノ甲遺跡。弥生時代前期の環濠集落跡です。この地域における本格的な水田稲作時代の始まりを示す遺跡です。

 久留米市大善寺町の道蔵遺跡(どうぞういせき)。大規模な拠点集落と考えられ、鳥形土製品(とりがたどせいひん)や青銅製品が見つかっています。

 久留米市合川町の古宮遺跡(ふるごういせき)。 弥生時代後期の集落で、多くの住居跡や鉄製品などが見つかっています。

 そして、卑弥呼の墓の候補地の一つ、祇園山古墳群です。

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祇園山古墳

 祇園山古墳は3世紀中頃に作られた方墳です。時期的に卑弥呼が無くなった時代と一致しており、出土品も顕著なものが見つかっています。また地理的にも、筑紫平野の多くを見渡すことのできる台地の上に位置しています。これら事から、多くの研究者がここを卑弥呼の墓ではないかとする意見を発表しています。なお、この台地上にはさらに5基の古墳があり、総称して「祇園山古墳群」と呼ばれています。

 文献史学上では、神功皇后が熊襲征伐で筑紫平野に来た際に、この近くの高良山(こうらさん)において神のお告げを受けたとされています。

 また、磐井の乱では磐井一族がここに陣を置いたと伝えられています。

 出土品としては古墳群全体で、人骨66体、鉄器類多数、大型の翡翠勾玉、碧玉製管玉、銅鏡片などが発見されています。鉄器の中には、鎌、錐(きり)、手斧鍬(ちょうなぐわ)などの鉄製農具も出土しています。

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卑弥呼の墓への曲解

 魏志倭人伝には次のように記されています。

『卑彌呼以死大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人』

【訳】 卑弥呼の死をもって大きく塚を作る、直径は百余歩、殉葬者は奴婢百余人。

 まず殉葬された奴婢の人骨ですが、確実に殉葬が行われたとする人骨や遺構は確認されていません。66人の遺骨はその後半世紀の間に亡くなった人骨であって、卑弥呼の死亡と同時に葬られた奴婢ではないと確認されました。

 また、形状は方墳で、大きさは約24m四方です。全然違いますね。とても百余歩の円墳などではありません。ところがここを卑弥呼の墓と主張する研究者たちは、当時は「円墳だった」、「掘削されて小さくなった」などと摩訶不思議な曲解をしています。

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箸墓古墳の曲解

 卑弥呼の墓に関する曲解は畿内説にも見られます。奈良県の纏向遺跡の中にある箸墓古墳です。これは278メートルの巨大な前方後円墳ですが、これを卑弥呼の墓としています。卑弥呼の墓と主張する研究者たちは、「左右一歩ずつペアで一歩だ」あるいは魏志倭人伝の誤り、大きさは「円墳部分」なる、これまた摩訶不思議な曲解をしています。曲解合戦ですね。

 古代中国人はそんなに馬鹿じゃないですよ。卑弥呼の墓は、普通に直径100m前後の円墳でしょ!

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卑弥呼の墓

 久留米には、日本書紀に登場する水沼氏という豪族がいたとする説があります。

この氏族は景行天皇の子孫とされ、神功皇后の三韓征伐の際の弓大将だったとされていますので、三世紀~四世紀頃の氏族の可能性があります。ただし、日本書紀の中には久留米エリアの豪族という記述はありません。

 根拠となっているのは、久留米市三潴町(みづままち)にある弓頭(ゆみがしら)神社の祭神となっている事です。それゆえ、この地が水沼一族が出現した土地とされています。

 残念ながら、神社伝説は最も信憑性の低い根拠です。おそらくこれは、奈良時代以降に日本書紀を元に後付けされたものだと思います。

 山門、八女、久留米という古代の有明海沿岸地域は、天然の水田適地という好条件を背景に、強力な勢力が存在していたのでしょう。

 しかしながら、この地域を邪馬台国と比定するのは少し無理があります。

文献史学上では、豪族の多くは中央(大和勢力)に敵対する豪族です。考古学的には、玄界灘沿岸地域の豪華な出土品と比べると、かなり見劣りします。

 これらの事から、この地域はむしろ魏志倭人伝に記された倭国大乱を引き起こした小国勢力と見るのが自然でしょう。

 次回は、この地域の最大規模の拠点集落・吉野ヶ里遺跡に焦点を当てます。