北部九州の総集編第二弾として、出土品などの考古学的な見地からの考察です。
朝鮮半島に最も近いという「地の利」のある地域ですので、絢爛豪華な出土品が豊富に発見されていますが、その分布には偏りがあります。
博多湾沿岸地域が突出して多いのに対して、筑紫平野を含めたその他の地域ではそれ程でもありません。
集落遺跡、威信財、墳墓の形式などから、邪馬台国時代の勢力分布を推測します。そこから見えてくるのは、魏志倭人伝に記された女王國に属する国々やその他の地域の勢力分布です。
北部九州には、弥生時代の大規模集落が数多くあります。特に吉野ケ里遺跡は有名です。面積では、奈良県の纏向遺跡、鳥取県の妻木晩田遺跡に次ぐ、第三位の規模を誇っています。また、平塚川添遺跡も同じような大規模な拠点集落跡も発見されています。
これら二つの拠点集落は、どちらも筑紫平野にありますので、弥生時代の中心地はこの地域だったようなイメージを持ってしまいがちです。実際に、当時の建築物跡や豊富な弥生土器の出土がありますので、一定規模の豪族な存在していた事は間違いないでしょう。
しかしながら、出土品の質や量という視点からは、この筑紫平野エリアは、海に面した玄界灘沿岸地域よりも劣っていると言わざるを得ません。権力者が持っていたであろう勾玉・管玉などの宝石類や、鉄剣や銅剣などの武器類の出土量が、明らかに少ないのです。博多湾を中心とする玄界灘沿岸地域が王族が支配する主力だったとすれば、それに対抗する勢力としての立ち位置が筑紫平野エリアだったと見る方が自然でしょう。
弥生時代末期の出土品の状況から、当時の勢力図を考察します。典型的な例として、威信財として最も権威がある、鉄製の大刀(だいとう)の出土分布です。
紀元前五世紀頃には九州に伝来していた鉄器ですので、邪馬台国時代の二世紀~三世紀頃には北部九州全域に行き渡っていたはずです。ところが、出土地域で見てみると明らかな偏りがあります。
この時代の鉄器の出土の多くは、博多湾沿岸地域です。もちろん筑紫平野や直方平野などでも発見されていますが、数量的にはごく僅かです。また、鉄剣や鉄矛という権力者しか持てない威信財も、博多湾沿岸地域に偏っています。筑紫平野でも太宰府市より少し南の筑紫野市エリアでは見つかっていますが、甘木朝倉エリアや、有明海沿岸エリアでの出土はほとんどありません。
もちろん農耕具としての鉄器の出土は、ある程度はありますが、強力な豪族の存在を窺わせるレベルの数量ではありません。
同じように、宝石類の出土にも偏りがあります。
翡翠製の勾玉、碧玉製の管玉など、権力者しか持ちえなかった高級宝石類もまた、北部九州全域での出土があるものの、博多湾沿岸地域からの出土が大半を占めています。
宝石類については、大陸からの輸入品ではなく、日本国内産です。強力な豪族の権威の象徴としてだけでなく、輸出品としての役割も果たしていたのでしょう。例えば、鉄の生産は朝鮮半島南部で行わせて、その対価として宝石類を輸出するといった具合です。
注目すべきは、これらの宝石類の原石の産地は、女王國の都があった邪馬台国です。翡翠硬玉は新潟県糸魚川市、碧玉は石川県小松市のものである事がよく知られています。邪馬台国は北陸地方にありましたので、北部九州はその支配下にあったという事が如実に現れている事象です。
魏志倭人伝にも、女王國の支配が及ぶ地域として、伊都国・現在の糸島市エリアが西の端とされていますので、それとの整合性もとれる出土品と言えます。
魏志倭人伝と考古学資料との整合性が取れる事例は、宝石類だけではありません。お墓の種類です。北部九州全域に見られる形式としては、土壙墓、木棺墓、甕棺墓があります。そして北西部にだけ見られる形式として、支石墓があります。支石墓は、朝鮮半島に起源を持つお墓で、その名の通り支えとなる石の上にさらに石を積み上げたお墓です。
この形式のお墓が見つかっているのは、玄界灘沿岸では糸島市エリアより西の地域だけです。魏志倭人伝で言うところの、末蘆国です。また、筑紫平野の南西部にも見られます。博多湾より東の女王國にはほとんど見つかっていません。
魏志倭人伝にしるされている女王國の支配が及ぶ限界の「伊都国」を境にして、明確にその分布が分かれているのです。
末蘆国に否定される旧松浦郡と伊都国との間は、背振山地という急峻な山地で隔てられていますので、そこを境にして女王國との国境がもうけられていたのではないでしょうか。
これらの考古学的な見地から、弥生時代末期すなわち邪馬台国時代の北部九州には、大きく三つの勢力分布があったと推測されます。
まず、博多湾沿岸地域から東のエリアは、遺跡からの出土品の豪華さから、王族が存在していた事は確実ですので、強大な勢力が支配していた地域だったといえます。魏志倭人伝に記されている「女王國」です。
筑紫平野の甘木朝倉や有明海沿岸地域は、威信財の出土品が少ない事から王族の存在は疑わしく、小規模な豪族が点在していたと見るべきでしょう。山門の土蜘蛛のような対抗勢力です。
北西部の旧松浦郡エリアは、辺境の地という位置づけです。出土品に特筆すべきものはない代わりに、支石墓という朝鮮半島由来のお墓が数多く見つかっているからです。
魏志倭人伝との整合性も取れます。女王國とされる地域は、博多湾沿岸地域から東の広大なエリアで、ずっと東の高志の国に女王の都・邪馬台国がありました。筑紫平野は、倭国大乱を引き起こした小国林立の対抗勢力。旧松浦郡は、朝鮮半島からの入国が許されていた無国籍地帯という位置づけになります。
考古学的な視点から邪馬台国のあった場所を考察すると、豊富な弥生遺跡や出土品が見つかっている北部九州は、有力な説と言えるでしょう。但し、「邪馬台国は女王の都」という記述からは、全く別の場所にあったと見る方が自然です。
現時点では、邪馬台国は畿内にあったという説が最有力視されています。ところが、近畿地方の文物が北部九州で発見された事例はなく、全くの空論と言わざるを得ません。
一方で、高志の国(北陸地方)が原産地とされる勾玉・管玉は多数見つかっています。権力者だけが持つ事を許された威信財ですので、高志の勢力が北部九州を支配していた事の明らかな根拠になります。
次回は、魏志倭人伝を含む文献史学の視点から、北部九州を総括します。